養ひ、之を陸上との交通にも、又は陸地の搜索にも、使用いたして居たが――最近の世界大戰以來持て囃された傳書鴿の使用は、東洋が本場で、十字軍の頃に、東洋から歐洲に傳つたものである――日支間の航海には之を使用せなかつた。從つて我が入唐船が本國を離るるが最後、陸上との交通全く絶えて、一切の消息が通ぜぬので、その心細さは想像以上と申さねばならぬ。
 之に加へて當時我が國の造船術も操船術も倶に幼稚で、支那は勿論、或は朝鮮よりも劣つて居つた。齊明天皇の御世に、百濟援助の目的で戰艦を造つたが、折角出來上ると間もなく「艫《ヘ》舳《トモ》相|反《カヘル》」といふ有樣で、實用に適せなかつたといふ(『日本書紀』卷廿六)。ついで我が海軍と唐の海軍と、今の朝鮮の忠清南道にある、百濟の白村江(白江口)で會戰して、我が海軍が失敗したが、それも畢竟我が國の戰艦の不完全と操船の不熟練の結果と認むべきであらう。仁明天皇の承和六年(西暦八三九)八月に唐から歸朝した大使藤原|常嗣《つねつぐ》の一行は、往路は日本船で出掛けたが、その歸路には日本船の不完全を嫌ひ、江蘇の楚州(今の淮揚道淮安縣)で新羅船を倩うて之に搭乘[#「搭乘」は
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