學問といはず、藝術といはず、宗教といはず、一切の文化を支那より承け繼いだ。就中佛教方面に於て、尤も大なる裨益を受けて居る。學問や藝術の爲よりも、宗教の爲に入唐入宋した人數の多いのを見ても、容易にこの事情が理會される。この長年月に亙つて受けた恩徳は、何日かは必ず返報せなければならぬ。
日清戰役以後、流石に因循姑息な支那國民の間にも、變法自強の聲が高まり、一切の革新は日本を手本とすることとなつた。制度・文物・學問・教育等、皆日本のそれを模倣する。たとひ歐米の文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用する方が、歐米から直接輸入するより、危險が少くて便宜が多いといふので、夥多の留學生を我が國に送り、又我が國から幾多の教習を迎へた。一時我が國へ來た支那留學生の數は萬を越え、彼國に招聘された日本教習の數は五百以上にも及んだ。光緒三十一年(明治三十八)六月に、署兩江總督周馥から外務省への上申書に、
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比年以來、學堂諸生、願[#レ]師[#二]日本[#一]。游學諸生、願[#レ]留[#二]日本[#一]。兵操則思[#レ]改[#二]日本[#一]、語言則樂[#レ]效[#二]日本[#
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