不完全であつた。第一般若三藏は佛教に達すれども、胡語・唐語(支那語)を知らず、景淨は胡語を知れども、佛教に達して居らぬから、この二人が協力しても、到底完全なる翻譯が出來る筈がない。かくして般若三藏は貞元四年(西暦七八八)に、新に梵本から六波羅密多經を譯した。これが今日に傳はる所の『大乘理趣六波羅密{多}經』である。元來この般若三藏は日本へも渡航布教の志を懷いて居つた人故、大師に對して特別の眷顧を垂れ、その譯出した『新譯華嚴經』『大乘理趣六波羅密{多}經』等を始め、梵夾三口を授けた次第は、『御請來目録』に載せられて居る。
 この般若三藏の相手となつた大秦寺の僧景淨といふは、徳宗の建中二年(西暦七八一)に建設された、かの有名な大秦景教流行中國碑文を撰述した人である。景淨の本名をアダム(Adam)といふ。彼の建設に關係した景教碑は、唐時代に於けるネストル教が支那に流行した來歴を明かにしたもので、耶蘇教國民にとつて忘れ難い好箇の記念物である。從つて歐米諸國民は、この景教碑に對して、吾人の想像以上の執着をもつて居る。嘗て在北京の外交團が一致して、支那政府にこの碑の保護を交渉したことさへある。今よ
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