盛の時代であつた。中にも支那の繪畫は、當時の世界に冠絶して居つた。唐末のアラビア人の支那見聞録にも、支那人はあらゆる技藝に於て、世界の各國民中に卓越して居るが、殊に繪畫を第一とする。彼等は他國民人には、到底模倣し得ざる程の完全なる繪畫を作ると述べてある。支那の鑄金術や合金術も、古代から頗る發達して居つた。大師の入唐より約百年前に、則天武后の延載元年(西暦六九四)に、諸蕃長は醵金して、武后の徳を頌する爲に、洛陽の宮城の正門前に、銅鐵製の天樞を建てた。天樞の形は八角で、その一面の廣さ十二尺、高さ百五尺といふ。天樞の正面には、武后の親筆で大周萬國頌徳天樞の八字を刻し、その周圍には、この計畫に贊成した百官及び四夷諸酋長の名を刻した。土臺は同じく銅鐵製の山形で、高さ二十尺周圍百七十尺餘に及ぶ。この土臺の上に、天樞が聳立して、定めて偉觀を呈したであらう。天樞は武后の死後間もなく破壞されたけれど、當時の記録によつて、その規模を髣髴の間に想見することが出來る。唐人の金物製作に長じて居つたことは、正倉院の御物――御物の中に唐製の器具尠くないと見受ける――を拜觀しても、推知するに難くない。この藝術の發達し
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