て浙江の温州の樂城縣(今の樂清縣)附近に到着いたし、滯在五年の後ち、承和十四年(西暦八四七)の夏六月二十二日に、明州(今の浙江省會稽道※[#「覲のへん+おおざと」、第4水準2−90−26]縣)より出帆して、西南風を利用し、僅々三晝夜にして、肥前國遠値賀島に歸着して居る。即ち往復ともに恆信風を利用した譯である。
高岳《たかをか》(眞如)親王に同伴して入唐した宗叡和尚は、清和天皇の貞觀四年(西暦八六二)の九月三日に、肥前の遠値賀島から東北風に乘じて帆を擧げ、途中一夜だけは逆風に苦しめられたが、その七日に早くも浙江の明州附近に到着した。貞觀八年(西暦八六六)歸朝の時は、六月に福建の福州(今の※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]海道※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]侯縣)より西南風に乘じ、五日四夜にして遠値賀島に到着して居る。これも往復ともに恆信風を利用したればこそ、かく容易な航海を遂げ得たのである。かく西暦九世紀の半頃となると、恆信風を利用した場合が多く見當るが、その五十年前の大師の入唐時代には、未だこの利用が十分に知られて居なかつた樣に思ふ。
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