當時諸外國の間に、長安を世界の外交の本舞臺と認めてをつたからであらう。
[#図1、諸国使者の着席順序]
 右の如き状態故、一旦唐の宮廷又は政府に吉凶があると、世界各國から慶賀もすれば又弔慰もする。高宗の崩御の際、諸蕃酋の親しく來弔する者六十一人もあつた。その記念に石を以て彼等の肖像六十一を作り、高宗の陵前に列した。高宗の陵は乾陵といひ、長安の乾(西北)の方向、三日程の距離の乾州(今の關中道乾縣)附近に在る。千二百餘年後の今日に至つても、乾陵の諸蕃酋の石像は依然として存在して居る。私の調査した時には、東側の蕃酋二十四、西側二十九を算した。玄宗の末年に、所謂天寶の亂が起つた時、西は遠く大食を始め、中央アジアの諸國、北の囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]等皆兵を出して唐を助けて内亂を鎭定した。我が國も唐の請求に應じて、兵器を供給すべく努力したことがある(『續日本紀』卷廿三)。これは凶事の場合の例だが、吉事の場合にも同樣であつた。
 長安の國子監は、今日で申せば帝國大學に當るが、その國子監へ高麗・新羅・百濟・高昌・吐蕃・渤海・日本の諸國から、留學生が來集した。支那人は世間普通に想像さ
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