では「顆一」](石印『全唐詩』卷七)とある――もあつた。當時米一斗は五拾錢位を通例として、豐年の時には五錢、甚しき時は參錢位の時すらあつた。之から推すと、長安士女の奢侈知るべしである。此の如きは天寶以後のことで、大師入唐前後の有樣である。
長安は又當時東洋に於ける國際關係の中心であつた。唐の天子は單に支那人の皇帝たるのみでなく、併せて塞外諸族及び西域諸國共同の大君主と仰がれて、天可汗といふ稱號をもつて居る。此等の諸酋長又は諸國王は、何れも唐の天子の官職を受け、その子弟を質として、唐の天子の許に差出した。當時これを侍官といふ。唐の天子から特別の御思召を以て、李姓を賜はり、又は公主を賜はることあれば、彼等は之を無上の光榮として、他部又は隣國に誇つた。唐から蕃部へ下嫁する公主を、當時和蕃公主と稱した。『唐詩選』にも載せられて居る、かの孫逖の詩に、
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邊地鶯花少。年來未[#レ]覺[#レ]新。美人天上落。龍塞始應[#レ]春。
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とあるのは、玄宗の開元二十五年(西暦七三七)に、契丹に下嫁した永樂公主を詠じたものである。
此等の羈縻藩屬の諸部・諸國
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