鍬など取り出して、崖を切り崩して、行違ひ出來るだけの場所を作る。その出來上る迄は、二時間でも三時間でも、否應なしに辛抱せなければならぬ。性急な爲に、却つて夥しい時間を空費した、馬鹿々々しい失策である。
 函谷關から西へ、二日程で例の潼關に達する。丁度大師より五十年程以前の天寶の亂に、官軍と賊軍とが、天下分け目の大戰をした場所である。潼關以西は普通にいふ所の關中の地で、道路も平坦に廣濶になつて來る。潼關から三日程前進すると、今の臨潼縣で、ここに驪山の温泉がある。唐の玄宗が楊貴妃と遊宴した場所で、白樂天の「長恨歌」や鄭嵎の「津陽門詩」に詠まれて、忘れ難い史蹟である。大師の時代には、まだ天寶の盛時を親覩した故老も多く存せしなるべく、且つは長安への往還に必經の道筋に當れば、大師もここでは定めし徘徊顧望されたことであらう。
 驪山の温泉の所在地から、日本里數で三里許り往くと※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]水の滸《ほとり》に出る。この川幅は二町に近い。川に※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]橋が架してあるが、その橋の兩側に楊柳が多い。唐時代に長安から東へ旅立する時には、
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