たした。大師が福建から長安へ、長安から浙江へ往復された、その道筋の半ばは、千百年後に、私も親しく通過した所である。この縁故により、大師の入唐の時、その往復に如何なる道筋をとられたであらうか。その旅行は如何に困難であつたであらうか。當時の長安は如何なる状態であつたであらうか。大師は長安で如何なる行動をされたであらうかといふ風の問題を、當時の記録と私自身の體驗とを土臺として御話し申したい。かかる講演は當會で未だ發表されて居らぬ樣であるし、旁※[#二の字点、1−2−22]萬更不適當のものであるまいと思ふ。

     (二)渡海

 大師の入唐はその三十一歳の時で、正しく桓武天皇の延暦二十三年(西暦八〇四)に當る。この年の七月六日に、遣唐大使藤原|葛野《かどの》麻呂の一行が、肥前國松浦郡|田浦《たのうら》から唐へ渡ることとなつた。大師は橘|逸勢《はやなり》と共に、藤原葛野麻呂の第一船に便乘いたし、天台の傳教大師は、判官菅原|清公《きよとも》の第二船に便乘いたした。ここで先以て申置かねばならぬことは、當時の日支間の航海は非常に危險で、今日では殆ど想像し得ざる程の困難が多かつたことである。
 申
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