以往、入朝使船、直着[#二]揚蘇[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とある通りであつた。錢塘江口の明州や越州(今の浙江省會稽道紹興縣)へも、隨分日本船が出入した。宋時代になると、この浙江沿岸の方が、支那と日本朝鮮との交通の門戸と確定した。
 然るに福建方面は、從來餘り日本と交渉がない。長溪縣へ日本船の入港したるは、恐らく今囘が最初であらう。大師の便乘した第一船も、勿論揚子江口か、錢塘江口を目的としたのであらうが、風波の爲に、この南邊に到着した譯である。この長溪縣は邊鄙の小縣とて不便多く、更に地方長官(福州觀察使)所在地の福州へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航を命ぜられ、我が遣唐大使の一行は赤岸鎭を後に、福州に到着したのは、その年の十月三日のことである。
 支那來航の外國船に貢舶と市舶との區別がある。貢舶とは外國の入貢船のことで、之に對しては支那官憲の取扱も鄭重で、その舶載せる貨物には關税を徴收せぬ。市舶とは貿易を目的にする外國船で、その貨物に對しては、所定の關税を徴收する。貢舶市舶の區別は、主として明代の記録に見えて居るが、事實としては唐・宋時代から、この區別が行はれて居
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