彼等の燃るが如き信仰心に感動されない者はなからう。東洋人にもかかる美はしい信仰心存する以上、我々は決して彼等を輕侮すべきでないと告白して居る。我が入唐求法の僧侶の傳記も、法顯・玄奘のそれと同樣、一つの教訓書と認めても何等差支がない。今日宗教界の人々が、よく此等の傳記を反復翫味して、宗祖高僧の心を心とせられたならば、我が佛教の前途洋々たるべきこと疑を容れぬと思ふ。
(※[#ローマ数字2、1−13−22])當時入唐した我が國の僧侶は、一般に支那の僧侶から好遇を受けた。大師が長安に於て、惠果阿闍梨や般若三藏から、甘露を仰いだ次第は、已に申述べて置いた。慈覺大師でも、智證大師でも、その他の入唐僧侶でも、或は長安に於て、或は北支那の五台山に於て、或は南支那の天台山等に於て、支那の大徳から多大の利益を受けて居る。此等支那の大徳は、そのあらゆる蘊蓄を傾けて、海外の求法者を啓沃した。我が入唐僧侶の天分の卓越せることを認むると同時に、支那僧侶の好意をも忘るべきでない。ただに宗界に限らず、俗界の官民ともに、我が入唐僧侶に對して、手厚い保護世話を加へて居る。
一體我が國は過去千幾百年に亙つて、久しい間、學問といはず、藝術といはず、宗教といはず、一切の文化を支那より承け繼いだ。就中佛教方面に於て、尤も大なる裨益を受けて居る。學問や藝術の爲よりも、宗教の爲に入唐入宋した人數の多いのを見ても、容易にこの事情が理會される。この長年月に亙つて受けた恩徳は、何日かは必ず返報せなければならぬ。
日清戰役以後、流石に因循姑息な支那國民の間にも、變法自強の聲が高まり、一切の革新は日本を手本とすることとなつた。制度・文物・學問・教育等、皆日本のそれを模倣する。たとひ歐米の文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用する方が、歐米から直接輸入するより、危險が少くて便宜が多いといふので、夥多の留學生を我が國に送り、又我が國から幾多の教習を迎へた。一時我が國へ來た支那留學生の數は萬を越え、彼國に招聘された日本教習の數は五百以上にも及んだ。光緒三十一年(明治三十八)六月に、署兩江總督周馥から外務省への上申書に、
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比年以來、學堂諸生、願[#レ]師[#二]日本[#一]。游學諸生、願[#レ]留[#二]日本[#一]。兵操則思[#レ]改[#二]日本[#一]、語言則樂[#レ]效[#二]日本[#
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