この講演を終らうと思ふ。私の講演は事實の羅列が多くて、無味乾燥なるに加へて、肝心の辯舌が不達者なる爲、定めて聽衆諸君に多大の迷惑をかけたことと、この點に就いては、衷心より陳謝申上げる。講演を終るに際して、その結論として、左の二項を申添へて置きたい。それが多少なりとも諸君に裨益を與へ、發憤を促がすことあれば、それだけでも私の講演が無意味でなかつた筈と、自身滿足いたす次第である。
 (※[#ローマ数字1、1−13−21])當時の入唐留學は、想像以上に危險困難であつた。身命を擲つ大覺悟がなくては、支那に出掛けることが出來ぬ。かかる危險困難を物ともせず、陸續入唐した當時の僧侶の勇氣の大なる、信念の篤き、千歳の下猶ほ後人を感憤せしむるに十分である。私は今囘の講演を機會に、大師は申す迄もなく、大師の前後に入唐した我が國の僧侶の傳記をも、一應調査したが、此等の人々が、求法の爲に千辛萬苦を嘗められた當時を追憶する毎に、幾度となく不覺の涙を禁ずることが出來なかつた。此等の人々の入唐は、名譽の爲でもなく、利慾の爲でもなく、全く純粹なる信仰の爲である。
 大師の後ち五十年許りを經て、清和天皇の御世に、總持院の濟詮といふ當時相當高名の僧侶が、入唐の志を懷き、智證大師に面謁して、彼國の風俗を問ひ、併せて支那語の教授を請はんとしたが、智證大師は相手にせぬ。默然一無[#レ]所[#レ]對といふ程の冷遇を示したから、濟詮は不平滿々として辭し去つた。智證大師はその弟子に向ひ、濟詮は才辯はあるが信念が薄い。彼は信仰の爲に入唐するのでなく、名聞の爲に入唐するのである。名聞の爲に入唐せんなどは、以ての外の心違ひであると訓戒されたといふ。誠に當時入唐求法の僧侶の大多數は、智證大師の申された如く、名聞利慾を超脱した、燃ゆるが如き信仰をもつて居つた。僧侶にかかる信仰あつたればこそ、佛法も興隆した譯である。
 支那に於ける佛教の歴史を見渡しても、佛法の興隆と、僧侶の入竺求法とは、略一致して居る。數多き入竺求法の僧侶の中には、法顯や玄奘がある。法顯・玄奘の紀行や傳記は、七八十年も以前から西洋に翻譯されて居るが、此等の傳記を讀んだ彼地の一學者は、非常に感動して、次の如き告白をして居る。我々西洋人が東洋人を異端として排斥し、宗教的信仰心なきが如く輕侮するが、こは確に間違ひといはねばならぬ。法顯や玄奘の傳記を讀めば、誰人も
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