に、英國のゴルドン夫人が、我が高野山の奧院に建設したものである。想ふに景淨が嘗て密教の翻經に助力したといふ因縁から、之を我が國の密教の靈場たる高野山に建設したのであらう。何樂模氏の作つた模造碑は、原碑と寸分違はぬといふ。高野山建設の模造碑は、私は未だ親覩の機を得ぬが、寫眞で觀た所では、原碑と隨分相違して居る樣に思ふ。
さて本題に立ち歸つて、惠果阿闍梨は順宗の永貞元年(延暦二十四年=西暦八〇五)の十二月に入寂され、その翌年即ち、憲宗の元和元年(大同元年=西暦八〇六)の正月十六日に埋葬された。惠果の埋葬を終ると間もなく、大師は長安を引き拂つて歸朝の途に就かれた。大師退京の時日は、何れの記録にも傳つて居らぬ。併し大師はこの年の三四月の交に、既に浙江地方に南下されて居る。その「與[#二]越州節度使[#一]求[#二]内外經書[#一]啓」に、元和元年四月と記してあり、また朱千乘――浙江地方の人と推すべき強い理由がある――の送別詩序(『高野大師御廣傳』上)に、元和元年春姑洗之月と記してあり、而して姑洗之月とは舊三月を指すから、此等の事實から推測すると、しかく斷定せなければならぬ。
越州は長安を距ること三千五百里――『元和郡縣志』に據ると三千五百三十里――で約一ヶ月半の路程に當る。現に前年の遣唐大使藤原葛野麻呂の一行は、二月十日(若しくば十一日)に長安を發して、三月二十九日に越州に到着した。その間に四十八九日を費して居る。大師も三四月の交に、越州附近まで歸來せらるるには、二月中旬後くもその二十日頃までに、長安を出發する必要がある。されば大師の住唐は滿二年といふ條、その實長安に於ける留學期は、一年二ヶ月に滿たぬ。元來大師は二十年間も支那に留學さるべき大望を懷かれて居つたに拘らず、僅に一年有餘にして歸朝の途に就かれた第一の大原因は、恩師惠果阿闍梨の遺託を重んじ、一日も早く眞言の密教を、故國の日本に傳播せん爲と推測すべきであらう。恩師の埋葬事終つて、約一ヶ月間に長安を引き拂はれた事實は、尤も雄辯にこの推測を裏書するかと思ふ。かくて大師は往時と同一の驛路を、反對に杭州に下り、杭州から越州に往き、越州・明州の間に數ヶ月滯留の上、その年の八月に遣唐判官高階眞人遠成の一行に加はり、明州より出帆して、十月に歸朝されたのである。
(七)結語
大師入唐の事蹟は略述べ盡したから、最早
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