不完全であつた。第一般若三藏は佛教に達すれども、胡語・唐語(支那語)を知らず、景淨は胡語を知れども、佛教に達して居らぬから、この二人が協力しても、到底完全なる翻譯が出來る筈がない。かくして般若三藏は貞元四年(西暦七八八)に、新に梵本から六波羅密多經を譯した。これが今日に傳はる所の『大乘理趣六波羅密{多}經』である。元來この般若三藏は日本へも渡航布教の志を懷いて居つた人故、大師に對して特別の眷顧を垂れ、その譯出した『新譯華嚴經』『大乘理趣六波羅密{多}經』等を始め、梵夾三口を授けた次第は、『御請來目録』に載せられて居る。
この般若三藏の相手となつた大秦寺の僧景淨といふは、徳宗の建中二年(西暦七八一)に建設された、かの有名な大秦景教流行中國碑文を撰述した人である。景淨の本名をアダム(Adam)といふ。彼の建設に關係した景教碑は、唐時代に於けるネストル教が支那に流行した來歴を明かにしたもので、耶蘇教國民にとつて忘れ難い好箇の記念物である。從つて歐米諸國民は、この景教碑に對して、吾人の想像以上の執着をもつて居る。嘗て在北京の外交團が一致して、支那政府にこの碑の保護を交渉したことさへある。今より十四五年前の明治四十年に、デンマークの學士|何樂模《ホルム》(Holm)といふ人が、英米二國で資金を作り、この景教碑を買收する目的で長安へ出掛けた。この計畫は種々の故障によつて、遂に實現を見なかつたが、その何樂模氏は長安で、景教碑の原物と同質同大の模造碑を作り、之を米國へ持ち込んだ。この事件の爲に、一時支那の官民は大騷をしたことがある。丁度この事件の最中に、私が偶然長安へ參つたので、この景教碑とは可なり深い因縁を作つた。その委細の事實は、明治四十三年四月の『藝文』に發表して置いた。何樂模氏とは行違つて面識はないが、どこからか私のことを聞き知つたと見え、明治四十五年に、態※[#二の字点、1−2−22]書信を寄せ、景教碑の模造碑を作つた爲、歐米の教界・學界から、幾多の表奬を受けたから、喜んでくれといふ鄭重な挨拶があつた(「大秦景教流行中國碑に就いて」)。
長安に現存する景教碑の本物以外に、近年その模造碑が世界に二個出來た。一つは上述の明治四十年に、何樂模氏の作つたもので、久しく米國のニューヨークの中央博物館に陳列されてあつたが、近頃ローマの教皇廳へ移轉されたといふ。今一つは明治四十四年
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