朝扇、摧[#二]肝耽羅之狼心[#一]。北氣日發、失[#二]膽留求之虎性[#一]。頻[#二]蹙猛風[#一]、待[#二]葬鼈口[#一]。攅[#二]眉驚汰[#一]、占[#二]宅鯨腹[#一]。隨[#レ]浪昇沈、任[#レ]風南北。但見[#二]天水之碧色[#一]、豈視[#二]山谷之白霧[#一]。掣[#二]掣波上[#一]、二月有餘。水盡人疲、海長陸遠。飛[#レ]虚脱[#レ]翼、泳[#レ]水殺[#レ]鰭、何足[#レ]爲[#レ]喩哉。
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とあるにて、その大體を察知することが出來る。耽羅とは今の濟州島のことで、南風の爲に、ここに漂着すると、掠奪に遭はねばならぬ。留求とは今の臺灣のことで、北風の爲に、ここに漂着すると、人喰種族に殺されねばならぬ。この敍述には幾分文章上の修飾誇張があるかも知れぬが、『日本後紀』卷十二の遣唐大使藤原葛野麻呂の復命にも、この時の航海の有樣を述べて、
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出[#二]入死生之間[#一]、掣[#二]曳波濤之上[#一]、都《スベテ》卅四箇日。
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とあるのを併せ考へると、當時の困難を略想像することが出來ると思ふ。海上に漂蕩した日數は、一つは卅四箇日といひ、一つは二月有餘とあつて、所傳一致を缺くが、七月六日わが田浦を發し、八月十日に唐の赤岸鎭に着したから、航海日數は正しく卅四日で、二月有餘とあるは、或は一月有餘の誤かも知れぬ。

     (三)福建着港

 大使の一行は他の友船と離れて、海上に在ること卅四日にして、八月十日に、唐の福州長溪縣赤岸鎭の海口に到着した。長溪縣は大體に於て今の福建省※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]海道霞浦縣の地に當る。赤岸鎭とは今の霞浦縣の西郊に近く赤岸溪といふ河がある。その河畔に在つたものと想はれる。その附近の海口を赤岸港といふ。赤岸とはこの附近一帶赤土にて樹木少なき故に、かく名付けたのであらう。この方面は福建地方でも尤も海中に突出して居り、從つて明の嘉靖時代にも、倭冦が頻繁に出沒した所である。
 一體唐時代に、日本船は多く揚子江沿岸に出入した。江蘇の揚州(今の淮揚道江都縣)とか、蘇州(今の蘇常道呉縣)とかが、日本船出入の要津であつた。大師の作られた、「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」の中に、
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建中(西暦七八〇―七八三)
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