た五十六人は薩摩國|甑《こしき》島郡に、舳部に乘つた四十一人は、肥後國天草郡に漂着して、不思議に生命を全くしたことがある。
 此の如き状態であるから、當時支那へ渡航するのは、殆ど命掛けと申しても決して誇張でない。學問の爲とか信仰の爲とか、專心精進の人は格別、御役目で唐へ派遣される人々は、先づ難有迷惑の方であつた。遣唐使出發の際には、例として朝廷で送別の宴を御開きになるが、隨分濕りぽいものであつた。大師の同伴された、遣唐大使の藤原葛野麻呂の爲に開かれた、送別の宴の有樣も、葛野麻呂涕涙如[#レ]雨、侍[#レ]宴群臣無[#レ]不[#二]流涕[#一]と傳へられてゐる(『日本紀略』前篇十三)。遣唐大使の佐伯今毛人や、遣唐副使の小野篁などは、渡航を忌避したと推せらるる形迹がある。暦學や天文を研究すべく、唐に派遣された留學生の中にも、愈※[#二の字点、1−2−22]本國發船の際に亡命して身を隱した者がある(『續日本紀』卷八)。宇多天皇の寛平七年(西暦八九五)に遂に遣唐使を廢止したが、これには唐の衰亂といふ原因もあらうが、遣唐使廢止の發議者たる菅原道眞の主張に、
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臣等伏檢[#二]舊記[#一]、度度使等、或有[#二]渡海不[#レ]堪[#レ]命者[#一]。或有[#二]遭[#レ]賊遂亡[#レ]身者[#一]。唯未[#レ]見[#レ]至[#レ]唐、有[#二]難阻飢寒之悲[#一](『菅家文章』卷九)。
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とあるに據ると、渡海の危險といふことも、その一大原因と認めねばならぬ。要するに大師時代の入唐は非常に危險多く、今日の歐米留學などと同一視すべきものでない。
 さて話が本題に立ち歸つて、わが大師の渡海の有樣を申述べよう。最初肥前の田浦出發の時は、當時の慣例として四艘一組となり、同時に帆を揚げたが、間もなく離散した。中にも大師の乘船は、最も困難なる航海を續けたことは、大師の作られた「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」(『性靈集』卷五)に、
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忘[#レ]身衝[#レ]命、冒[#レ]死入[#レ]海。既辭[#二]本涯[#一]、比[#レ]及[#二]中途[#一]、暴風穿[#レ]帆、※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]風折[#レ]柁。高波沃[#レ]漢《ソラニ》、短舟裔々。※[#「豈+風」、352−14]風《ミナミカゼ》
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