ど、五十年の歳月は次第に彼等を南化せしめた。東晉の中世に、桓温が中原恢復に手を着け、永嘉の亂に南渡した者は、一切北土に還附せんと計畫した時、彼等はむしろ安樂の南土を後に、喪亂の北土に歸ることを憚つたのである(14)。間もなくいはゆる庚戌の制が布かれて、南土に僑寓して居る者は、一切その所在の版籍に登録され、課役に服することとなつた。この中國の世族――聲望に於て智識に於て當時尤も卓越した漢族――の多數が江南に遷徙し、永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をしたことは申す迄もない。
南北朝對立の際、南朝は北朝を指して索虜といひ、北朝は南朝を斥けて島夷といひ、互に誹詆を逞くして正閏を爭うた。正閏如何の問題は別として、公平に批判すると、北朝は地は中原を占めて、人は左衽《サジン》の夷類である。南朝は地は島夷に屬して、人は衣冠の華族である。北齊の顏之推《ガンシスヰ》は南北を比較して、
冠冕君子、南方爲[#レ]優。閭里小人、北方爲[#レ]愈。
と評して居る(15)。こは主として言語音韻に就いて下した評ではあるが、推して一般にも應用することが出來ると想ふ。當時北土の民間には
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