あつた。從つて譜學の流行も南朝が一層で、士庶の區別も、官途の制限も、頗る嚴重であつたが、塞外種族の勢力ある北朝では、この弊がやや尠い。要するに北方では塞外殺伐の風が著しく、南方では漢族文弱の風が目に着く。こは支那の南北問題を攻究するに當つて、輕々に看過すべからざる一大現象である。
 次に當時の經學界を見渡すと、北人は訓詁を重んじ、南人は義理を重んずる。北人は東漢の舊學を承け、南人は魏晉の新學を承けた。北朝では易は鄭玄の註を採るが、南朝では王弼の註を採つた。書では北朝は鄭玄の註を用ゐたが、南朝は孔安國の註を用ゐた。左氏傳は北朝は服虔の註に循うたが、南朝は杜預《ドヨ》の註に循つた。唐人はこの學風の相違に就いて、
  南人約簡得[#二]其英華[#一]。北學深蕪窮[#二]其枝葉[#一]。
と評して居る(16)。この評の當否は兎に角、唐の太宗の貞觀十四年に、孔穎達《クエイタツ》等に命じて、『五經正義』を選せしめた時、唐は北朝の後を承けたに拘らず、大體南朝の經説を採用して、北朝の經學を排斥した。
 南北の書道にもその間に看過すべからざる相違がある。南朝の書風はすべて婉麗清雅で、北朝は概して痩硬古樸
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング