、各※[#二の字点、1−2−22]その特徴を備へて居るけれど、北朝には遂に王羲之・王獻之父子に當り得る程の大立者がない。顏之推《ガンシスヰ》[#ルビの「ガンシスヰ」は底本では「ガシシスヰ」]が北人を評して、書迹鄙陋、造字猥拙といへるは、或は酷に失すとしても、南人が擧つて二王の書迹の模※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]に腐心するに比しては、一體に及ばざること遠しといはねばならぬ。唐宋の學者の書道を論ずる者、皆南に厚くして北に薄いのは、必ずしも各自の嗜好に佞する結果とのみは斷じ難い。李唐の世となり、太宗が王羲之を尊崇して以來、書道に於ても南派は北派を壓倒することとなつた(17)。
文詞に就いても南北の間に好尚の異同がある。南人は文華を尚び、北人は質實を尚ぶ。各※[#二の字点、1−2−22]得失はあるが、齊・周以來、南朝輕綺の文體次第に北に流れて、隋唐の際に行はれた。この點に於ても、北人は南人に一籌を輸して居るといはねばならぬ(18)。
南北の音樂を論ずると、南には呉楚の聲多く、北には胡虜の音多い。等しく純正を缺くとしても、北樂に比して南樂は遙に優つて居つた。西晉の末、洛陽・長安の陷落した時、伶官樂器は匈奴に入り、一時中國傳來の雅樂は失はれたけれども、江東の新朝廷の不斷の努力によつて、次第に遺工逸樂を採拾し、殊に※[#「さんずい+肥」、第3水準1−86−85]水の戰勝と共に、西晉・漢・趙・燕・前秦と傳へて來た樂工を獲て、廟堂の雅樂大に備つたのである(19)。隋の文帝が陳を平げて後ち、南朝の樂を耳にして、華夏正聲也と嘆美したのは、誠に故あることと思ふ。隋及び唐の音樂は、大體に於て、南北を併せたものではあるが、その雅樂は、畢竟南朝の雅樂であるから、音樂に於ても南が北に勝つた譯である(20)]。
永嘉以來三百年間、中原と江南と界を限り、各自の文化を有して相對抗したが、結局は南方の學術・文藝が勝利を博したのである。南方文化の勝利、こは確に破天荒の事變といはねばならぬ。
三
南北支那の文化發達の迹を達觀すると、明に三大時期に分つことが出來る。魏晉以前は北支那の文化が遙に南支那を壓した時代で、明清以後は南支那の文化が遠く北支那を壓した時代である。試に『後漢書』の儒林・文苑の二傳に、專傳をもつて居る六十四人――材料としては聊か不充分で、又不適當かも知れぬが――を本として、東漢二百年間に於ける人材分布の樣子を、今の地理に當てて調査すると、上の如き結果を生ずる。
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北 南 南北以外
直隷 2人 湖北 2人 四川 7
山東 16 江蘇 1
河南 23 安徽 1
陝西 7 浙江 2
甘肅 2 江西 1
計 50 計 7
[#ここで字下げ終わり]
即ち北五省に産した人材は、南五省に産した人材の七倍以上に當つて居る。當時北方の文化が南方を壓した明證である。
飜つて『皇明通紀』の第十三卷に收めてある、會元(京師で擧行する會試の首席合格者)三及第(殿試の最優等者、すなはち状元・榜眼・探花の三人)總考を根據として、明の洪武四年より萬暦四十四年に至る二百四十五年間に出た、會元及び三及第者の總數二百四十四人――この統計は幾分不正確かも知らぬが――に就いて、當時の人材分配の状況を觀ると、全然趣を異にしてゐる。
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北 南 南北以外
北直隷 7人 南直隷 66人 四川 6人
(今の直隷) (今の江蘇・安徽)
山東 7 浙江 48
山西 4 江西 48
河南 2 福建 31
陝西 9 湖廣 8
(今の陝西・甘肅) (今の湖北・湖南)
計 29 廣東 6
廣西 2
計 209
[#ここで字下げ終わり]
すなはち南方の人材は北方のそれに比して七倍以上に當つてゐる。北支那は最早明かに南支那の敵ではない。
漢の司馬遷が、
夫齊魯之閑[#二]於文學[#一]、自[#レ]古以來其天性也(21)。
と評したのは、魏晉以前に於ては事實であるが、明以後には通用せぬ。清の乾隆帝は之に反して、
江浙爲[#二]人文淵藪[#一](22)。
と評して居るが、こは明清時代には動かすべからざる事實で、然も魏晉以上には適當せぬ。要するに支那近代の學術について論ぜば、北は遠く南に遜り、古代の學術に就いて論ぜば、南は遠く北に遜る。是が山にも比すべき斷案である(23)。
支那の歴史は一面より觀れば、漢族の文化の南進の歴史ともいへる。魏晉以前は支那文化の中樞は北支那に在る
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