、漢族を統治することとなつたのである。勿論晉室が南渡しても、漢族の多數は依然北支那に住んで居る。北支那の主權が匈奴・羯・鮮卑・※[#「低−にんべん」、第3水準1−86−47]・羌と移轉しても、漢族の人材は何れの種族にも登庸された。併し要するに彼等は劣敗者である。被治者である。衣冠の華族すら胡人の陵侮を免れ得れば幸とする世の中であつた(12)。彼等の多數は漢狗とか一錢漢とかいふ侮辱を甘受せなければならなかつた(13)。漢狗とは狗同樣の漢人といふ意味で、一錢漢とは一文奴の漢人といふ意味である。かくて塞外種族の大臣大將の下に、日一日と塞外の風氣が北支那に浸潤彌蔓するのは、自然の勢といはねばならぬ。
之に反して南支那は、その間、終始漢族の天子を戴いた。漢族の士民も亦尠からず、晉室と共に南に移つた。或は兵力を以て強逼されて、本意ならず移つたものもある。江淮以南の地、到る處に僑郡又は僑縣を建てて、茲にこれら新來の北人を安插した。殊に王氏・謝氏を始め、中國の名族甲姓は、多く亂を避けて江南に徙り、當時のいはゆる僑《ケウ》姓となつた。僑姓僑民は當初こそ故土を思慕して、南土の版籍に列することを拒んだけれど、五十年の歳月は次第に彼等を南化せしめた。東晉の中世に、桓温が中原恢復に手を着け、永嘉の亂に南渡した者は、一切北土に還附せんと計畫した時、彼等はむしろ安樂の南土を後に、喪亂の北土に歸ることを憚つたのである(14)。間もなくいはゆる庚戌の制が布かれて、南土に僑寓して居る者は、一切その所在の版籍に登録され、課役に服することとなつた。この中國の世族――聲望に於て智識に於て當時尤も卓越した漢族――の多數が江南に遷徙し、永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をしたことは申す迄もない。
南北朝對立の際、南朝は北朝を指して索虜といひ、北朝は南朝を斥けて島夷といひ、互に誹詆を逞くして正閏を爭うた。正閏如何の問題は別として、公平に批判すると、北朝は地は中原を占めて、人は左衽《サジン》の夷類である。南朝は地は島夷に屬して、人は衣冠の華族である。北齊の顏之推《ガンシスヰ》は南北を比較して、
冠冕君子、南方爲[#レ]優。閭里小人、北方爲[#レ]愈。
と評して居る(15)。こは主として言語音韻に就いて下した評ではあるが、推して一般にも應用することが出來ると想ふ。當時北土の民間には
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