、猶ほ漢族多數で、その風尚は南方呉越の民衆に優つて居つたが、南朝の卿相は漢族の甲姓で、その應對は遙に北朝の高官――多くは塞外種族の出身たる――に優つて居つたのである。
 晉の南渡後、隋の統一に至るまで、約三百年の間、北支那と南支那と相對立して、文藝・學術・風尚その他萬端に渉つて、顯著なる相違を表はして居る。
 先づ『顏氏家訓』や『南史』『北史』等を材料として當時の南北の風尚を比較すると、南方では茗《ちや》を飮み魚を食つたが、北方では酪を飮み肉をくらつた。南人は老莊を尚び、室内の清談に耽つた間に、北人は郊外の守獵に馳驅した。南人は奢侈懦弱であつたが、北人は質素剛健であつた。南朝の官人は皆輿に乘り、偶馬に乘る者があると、世の指彈を受けたが、北朝は皆騎馬に限つた。北の儒生は皆兵射に達して居つたが、南方では餘り流行せぬ。北人は女は織衽に、男は農耕に力めて、一般に勤儉の風があつたが、南人は一體に織耕を厭ひ、殊にその貴族は不斷の安逸を貪つた。生計に餘り頓着せぬ南人は、概して數學に不得手であつたが、北人はその反對に尤も算數に長じて居つた。南北ともに魏晉の後を承けて、門閥を重んじたが、南朝は殊に極端であつた。從つて譜學の流行も南朝が一層で、士庶の區別も、官途の制限も、頗る嚴重であつたが、塞外種族の勢力ある北朝では、この弊がやや尠い。要するに北方では塞外殺伐の風が著しく、南方では漢族文弱の風が目に着く。こは支那の南北問題を攻究するに當つて、輕々に看過すべからざる一大現象である。
 次に當時の經學界を見渡すと、北人は訓詁を重んじ、南人は義理を重んずる。北人は東漢の舊學を承け、南人は魏晉の新學を承けた。北朝では易は鄭玄の註を採るが、南朝では王弼の註を採つた。書では北朝は鄭玄の註を用ゐたが、南朝は孔安國の註を用ゐた。左氏傳は北朝は服虔の註に循うたが、南朝は杜預《ドヨ》の註に循つた。唐人はこの學風の相違に就いて、
  南人約簡得[#二]其英華[#一]。北學深蕪窮[#二]其枝葉[#一]。
と評して居る(16)。この評の當否は兎に角、唐の太宗の貞觀十四年に、孔穎達《クエイタツ》等に命じて、『五經正義』を選せしめた時、唐は北朝の後を承けたに拘らず、大體南朝の經説を採用して、北朝の經學を排斥した。
 南北の書道にもその間に看過すべからざる相違がある。南朝の書風はすべて婉麗清雅で、北朝は概して痩硬古樸
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