北支那、殊に齊・魯の産が多い。
 孟子は楚人を南蠻|鴃舌《けきぜつ》の人と罵つた(7)。秦漢以來南土の風化は日に開けたけれど、楚人は矢張り沐猴《もくこう》而冠と酷評されて居る(8)。三國西晉時代にかけて北支那人は南人を貉奴《ばくど》又は貉子《ばくし》と稱して指斥した(9)。江南は一般に卑薄之域と評價されて居る(10)。秦漢魏晉五百年の間、南方にも范増出で、韓信・英布が出てゐる。みな江淮の間に人となつたのである。初めて漢の西域都護となつた鄭吉、『論衡』の著者王充は、等しく會稽(浙江)の産である。東漢の末には大臣として胡廣あり周景あり、名士として徐穉《ヂヨチ》あり臧洪《サウコウ》[#ルビの「サウコウ」は底本では「ゾウコウ」]がある。詞賦の陳琳、經學の包咸と併せて、何れも南人の精華である。三國時代に降ると、呉には孫堅・孫策・孫權の父子兄弟、陸遜・陸抗・陸機・陸雲の父祖子孫、周瑜《シウユ》・魯肅の才、韋昭・虞翻《グホン》の學、濟々たる多士の觀はあるが、併し大體より觀察すると、北支那と南支那との間に、當時猶ほ文野の大懸隔の存したことは、動かすべからざる鐵案である。西晉の陳※[#「君+頁」、読みは「いん」、141−1]の豫州人士、常半[#二]天下[#一]の一語によつても、豫州(河南)を中心とする北支那が、當時文化の淵藪たりし事實を、容易に悟了することが出來る(11)。

         二

 然るに晉室の南渡は、この南北の文野の區劃に、大なる變動を生ぜしむる原因となつた。殺伐野蠻な塞外種族が、古來漢族の根據地であつた北支那を占領して、茲に三百年間、優勝者の權力を振ひ、漢族の天子はその大官貴族の多數と共に、南支那に移住するといふ一大事變が、支那文化の中樞に大變動を及ぼすべきは、冒頭より期待することが出來る。
 塞外種族の北支那へ移住し、若くば歸化し來たものは、兩漢・三國・西晉時代にかけて、決して少數ではなかつた。西晉時代には一時に十萬以上の大衆の移住歸化も稀有でなかつた。西北方面の州郡では、戎狄と漢族と居民相半する有樣さへあつた。西晉の太康元年に郭欽、元康九年に江統、相前後して徙戎《シジユウ》論をたてまつり、内地に雜居せる塞外種族の處置の急務なることを、絶叫疾呼したのはこの故である。
 所が今や此等の塞外種族が、被治者として雜居するではなく、堂々と實力によつて北支那を占領して
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