論ずる學者もあるが、こは老※[#「耳+冉」、第4水準2−85−11]《ラウタン》・莊周・列禦寇ら道家の大立者は、何れも今の河南の産であるといふ事實を無視した、粗笨の議論である(3)。
 秦の始皇帝が六國を統一して、南方經營に着手して以來、呉・越の故地は固より、遠く南粤《ナンヱツ》の地までも皆秦の版圖に列し、漢族の南下するもの日に多きを加へて、南支那の風氣開發に多大の影響を與へたが、秦漢時代を通じて、依然北支那が文化の中樞であつた。
 西漢時代には山東出[#レ]相、山西出[#レ]將といふ語がある(4)。東漢時代にも、關西出[#レ]將、關東出[#レ]相といふ諺がある(5)。是に謂ふ所の山東・山西は華山を基點として定めた名稱で、函谷關を基點として定めた關東・關西と、ほぼ同一の意義をもつて居る(6)。要するに兩漢時代の文武の名士は、北支那の産に限つたものである。
 西漢の高祖は沛から起つた。從つて西漢時代の卿相は、蕭何《セウカ》・曹參・王陵・周勃・樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《ハンクワイ》を始め、沛を中心とした徐・※[#「亠/兌」、第3水準1−14−50]二州の人物が多い。東漢時代には光武帝の故郷である南陽出身の大臣が多い。※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]禹《トウウ》・李通・岑彭《シンパウ》・呉漢・賈復ら皆それである。沛と南陽と地は異つても、等しく北支那の範圍に屬するのである。
 兩漢時代に北塞南徼の外に偉功を建てた人物も亦北支那の産が多い。張騫・李廣・蘇武・趙充國・甘延壽・傅介子・段會宗・馬援・班超・班勇・梁※[#「りつしんべん+槿のつくり」、読みは「きん」、140−5]など、何れも所謂關西の産である。
 兩漢の學問といへば儒學に限るが、その儒學者中にも南支那人は餘り見當らぬ。經學の傳統をたづねると、易は六家に分れて居るが、施氏易の施讎(沛)、孟氏易の孟喜(東海)、梁丘氏易の梁丘賀(琅邪)、京氏易の京房(東郡)、費氏易の費直《フツチヨク》(東莱)、高氏易の高相(沛)皆北支那人である。書については歐陽氏學の歐陽高(千乘)、大夏侯氏學の夏侯勝(魯)、小夏侯氏學の夏侯建(魯)、古文尚書の孔安國(魯)、詩については魯詩の申公(魯)、齊詩の轅固生《ヱンコセイ》(齊)、韓詩の韓嬰(燕)、毛詩の毛萇《マウチヤウ》(趙)といふ風に、經學に大關係ある學者は皆
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