近き諡號をもつて居る。諡號が長くなり、記憶や使用に不便を加へたから、唐以後は天子の諡號を稱せずに、高祖とか太宗とか廟號を稱するのが慣例となつた。兔に角漢以後の諡は、行の迹といふ本義を失ひ、ただ崩後飾終の追讚に過ぎなくなつた。
四
〔郡縣の治〕 秦以前の支那は封建であつて、幾多の諸侯が各※[#二の字点、1−2−22]土地人民を私有して居つた。夏の初には天下の諸侯の數一萬、殷の時には三千、周の初には千八百と傳へられて居る。長い年月の間には、攻爭併呑の結果、是等の諸侯は次第にその數を減じ、春秋時代には百六七十國、戰國時代には十國内外となり、最後に秦の一統となつた。天下一家といふことは、始皇帝の時に始めて現實となり、その以前に未曾有の事である。
さて一統した天下を如何に處分するかは、當時の一大問題であつた。丞相|王綰《ワウワン》を始め、群臣多數の意見は、周の舊にならつて封建の制を行ひ、遠隔の地に同姓子弟を分封して諸侯王といたし、皇室の藩屏たらしむるに在つたが、始皇帝は李斯の言を聽き、天下を擧げて皇室の直領とし、郡縣の治を布くこととなした。『左傳』や『史記』に明記してあ
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