して、その君父生前の行爲を批評せねばならぬ。こは甚だ君父の尊嚴を損ずる譯である。故に始皇は爾後諡法を除くこととした。
 漢は多くの點に於て秦の制度を採用したに拘らず、諡法のみは秦の制度に反對して、之を復活した。復活はしたが、漢以後の諡法は次第に骨拔きとなつて、本來の意義を沒了した。臣下はただ君上に佞して、美諡のみを呈することとなり、全く勸善懲惡の主意を失つたからである。例せば諡法に愛[#レ]民好[#レ]與曰[#レ]惠とあるに、西晉の惠帝の如きがある。また辟[#レ]土服[#レ]民曰[#レ]桓とあるに、東漢の桓帝の如きがある。諡法中に見える躁とか荒とか刺とか醜とかいふ惡諡は、遂に使用された例がない。隋の煬帝の如き惡諡は稀有の例外で、諡法に好[#レ]内遠[#レ]禮曰[#レ]煬とも、逆[#レ]天虐[#レ]民曰[#レ]煬ともある。
 しかのみならず周時代には一字の諡を普通としたに、世の降ると共に字數を増して、多きを誇り、一字の諡號が二字となり、唐時代には普通に六七字となり、更に明・清時代になると二十字内外に増加した。清の太祖の如きは、承天廣運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安宏文定業高皇帝と三十字
前へ 次へ
全37ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング