出來ぬ。
 三國西晉以降は、五胡跋扈の時代で、無頓著な支那人すら、神州陸沈、華胄左衽と憤慨して居る時代であるから、事々しく茲に贅する必要がない。唐の太宗は古今の英主である。天下併合の後ち、異族に對しては、武斷主義を實施する素志もあつたが、當時の大臣の兵凶戰危の説に動かされて、遂に懷柔和親策を執ることとなつた。唐一代の間、四裔の君長に、請ふが儘に所謂和蕃公主を下嫁せしめたのは、この政策の結果である。「美人天上落。龍塞始應[#レ]春」と詠はれた永樂公主も、「九姓旗旛先引[#レ]路。一生衣服盡隨[#レ]身」と詠まれた太和公主(?)も、皆この政策の犧牲となつた和蕃公主である。しかし貪婪※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]くなき夷狄は、通婚のみで羈縻されるものではない。朝に公主を送ると、夕に金帛を求むるといふ有樣であつた。結婚と贈遺とによつて異族を緩和して、その劫掠を免るるといふのが、漢・唐――漢族の國威の尤も揚つたと稱せらるる――を通じて、對異族策の大方針であつたが、結果はやはり不首尾で、羽檄の飛ぶことも、烽火の擧ることも、依然として減少することがなかつた。
 宋に於ける契丹・西夏・女眞
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