は中國の國號として、不朽に傳へらるることとなつた。
九
如上の事實によつて考察すると、始皇は實に中國民族の爲に氣を吐いた者といはねばならぬ。外敵に對しては一意和親偸安を事とする、支那歴代の君主の間に在つて、彼は確に一異彩を放つて居る。支那四千年の外交史――屈辱的失敗的外交史――は、彼によつてわづかにその面目を維持し得たというても、甚しき誇張の言であるまい。
試みに秦以後の支那の外交史を達觀すると、漢の高祖は群雄平定の餘威を藉り、三十萬の大軍を率ゐて匈奴を親政したが、白登の一敗に意氣銷沈し、或は宗女を與へ或は金帛を遺り、ひたすら彼等の歡心を買うた。高祖の崩後、漢の君臣は專心この政策を襲踏して、如何なる匈奴の慢辱をも神妙に我慢して居る。この間武帝の如き一二豪傑の君主が出て、北狄征伐を行うたけれど、要するに九失一得、功は勞に酬ひずといふ有樣であつた。支那の史家は歴代の對異族策を評して、周は上策を得、秦は中策を、漢は下策を得たと評して居る。周は果して上策を得たか否かは疑問であるが、漢一代の對異族策は、始皇のそれに比すると、費は多くして功は尠いといふ事實を否定することが
前へ
次へ
全37ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング