の事情を斟酌すると、これにも多少恕すべき點がある。罪は輕きに從ひ賞は重きに從ふとは、儒家の意見で、法家はその反對に、罪は重きに從ひ、賞は輕きに從ふを原則として居る。法家の説を信奉する始皇帝が、罪の疑はしき者に對して、嚴に從つて處罰したのは、その所信に忠實なる結果である。彼は終始この主義を一貫して居る。坑儒事件に就いてのみ、無情過酷であつた譯ではない。
 始皇は一日丞相李斯の途中行列が、餘りに堂々たるを見て、君主の位置を無上絶對に置く彼は、甚だ不平であつた。下尅上の漸とならんことを恐れてである。然るにその翌日から、李斯は打て變つて、その前騎從車の數を減じた。始皇は之を見て、我が不平を李斯に内通した者があるとて大いに怒り、左右の者を案問したが、遂にその人を認め得なんだから、當日左右に侍した者一同を捕へて、死罪に處したことがある。又その後ち、東郡地方で石に始皇帝死而地分の七字を刻した者があつた。始皇は官吏を派遣して、その犯罪者を搜索したが、目的を達し得ずして、遂に附近の住民一同を死罪に處したこともある。此等の事件を坑儒事件と對比すると、始皇の主義も自から理會することが出來る。
 若し坑儒事件
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