る程、大なる損害はなかつたものと察せられる。殊に秦の朝廷には七十人の博士があつて、その藏書は無難の筈であるから、秦火災厄の程度は愈※[#二の字点、1−2−22]輕小といはねばならぬ。その後ち楚の項羽が關中に入つて、咸陽の宮殿を一炬に焚き盡した時、官府所藏の典籍多く灰燼に歸したので、古書佚亡の責は、始皇よりも咸陽を焚いた項羽、若くば項羽に先だつて關に入りながら、官府の藏書の保護を怠つた、劉邦や蕭何らが負ふべき筈である。
思想統一の爲、君權擁護の爲とはいへ、天下の書籍を焚くなどは、勿論贊むべきことでないが、ただ世人は焚書事件のみを知つて、その當時の事情と實際とを察せぬ者が多いから、聊か始皇の爲に辯じたのである。
六
〔坑儒〕 始皇帝は挾書の禁令發布の翌年に、諸生四百六十餘人を咸陽に坑殺した。世に所謂坑儒事件である。この事件も根本史料の『史記』を調査すると、後世の所傳は、事實を誣ふるもの、尠からざることが發見される。
戰國の頃から、不死の靈藥を求むることを專門とする、方士といふ者が出來、燕・齊・楚等の諸國王は、何れも方士を信任した。始皇帝も亦當時の風潮に從ひ、幾多
前へ
次へ
全37ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング