『呂氏春秋』のうちに、略同樣の意見を述べて居る。
 始皇帝はかねて韓非を崇拜して居つた。寡人得[#下]見[#二]此人[#一]與[#レ]之游[#上]、死不[#レ]恨矣とさへいうた程である。呂不韋は始皇即位の初に、國政を委ねた大臣で、然も始皇の實父とさへ傳へられて居る。この韓非、この呂不韋、何れも處士を抑へ古書を除くべしと主唱する以上、始皇は最初より處士と古書の處分に腐心して居たのは、むしろ當然のことと思はれる。かかる事情の下に、彼の尤も信任せる丞相の李斯が、思想統一の爲、君權擁護の爲、異端邪説に關係ある古書を禁止せんことを上書したから、始皇は直に之を納れ、遂に所謂挾書の禁、焚書の令が發布されたのである。
 秦の焚書は、文運の大厄であつたことは申す迄もない。しかし世人は多くその書厄を過大視して居るやうである。現に『舊唐書』などにも、三代之書經[#レ]秦殆盡と記してあるが、こは誇張の言で、頗る事實を誣ふるものといはねばならぬ。始皇の典籍を銷燬した記事は、詳に『史記』に載せてあるが、之を熟讀すると、左の事實を否定することが出來ぬ。
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(イ)秦に不利益な
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