皇帝が所在に碑を立てた目的の一半も、或は文字の統一を促す一方便であつたかも知れぬ。
〔天下巡游〕 始皇帝は天下併一の翌年、即ち彼の在位二十七年から以後、頻繁に四方に巡幸した。
二十七年 今の陝西の西部及び甘肅方面
二十八年 今の河南・山東・安徽・湖北・湖南方面
二十九年 今の河南・山東・山西方面
三十二年 今の直隷・山西方面及び陝西の北部
三十七年 今の湖北・湖南・江蘇・浙江・山東方面
彼はかく四方を巡行しつつ、到る處に秦の頌徳碑を立てた。有名な※[#「山+繹のつくり」、第3水準1−47−91]山《エキザン》の碑、琅邪臺の碑、之罘《チーフー》の碑、泰山の碑、會稽山の碑等は、皆この時に立てられたもので、何れも秦が四海混一した功徳を勒してある。秦は六國を併合したものの、六國の遺臣や遺民は、決して一朝に秦に心服するものではない。そこで天下の耳目を新にする必要が起る。始皇帝が頻年四方を巡游した目的も、畢竟六國割據の餘風を打破して、彼自身が決して秦一國の君でなく、四海の共主であることを、天下萬民に會得せしめん爲で、極めて時宜に適當した政略といはねばならぬ。清の康煕・乾隆二帝が、屡※
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