部と大差なくなつた。
始皇帝の力によつて、空前の一大帝國が建設されると共に、秦の威名は遠く海外に振ひ渡つた。兩漢から三國時代にかけて、北狄でも西域でも、中國人を呼んで常に秦人というて居る。南海方面でも同樣であつた。西暦一世紀頃のギリシア人の地理書には、世界の極東の國をシナと記載してあるが、恐くは當時南海方面で、中國を秦と呼んだのを、極東來航の泰西の商賈達が訛り傳へたものであらう。シナといふ國號の起源に就いては、學者間に異説があつて、或は雲南地方の※[#「さんずい+眞」、第3水準1−87−1]國と結合せしめ、或は之を安南地方の日南郡に還原せしめて説明する人もあるが、皆採るに足らぬ。シナは必ず秦と關係せしめて解釋すべきものである。
シナ又はシニスタン(秦人の國の義)といふ名稱は、印度から中央アジア・西アジアへかけ、更に歐洲まで尤も廣く使用されて居る。支那又は至那等はシナの音譯、震旦又は振旦等はシニスタンの音譯である。漢や唐も國威四方に張つた結果、その國號は中國の代名として、外域に使用されたことがあるけれども、到底支那の如く世界的でない。秦の天下に君臨した年月は短かつたに拘らず、その國名は中國の國號として、不朽に傳へらるることとなつた。
九
如上の事實によつて考察すると、始皇は實に中國民族の爲に氣を吐いた者といはねばならぬ。外敵に對しては一意和親偸安を事とする、支那歴代の君主の間に在つて、彼は確に一異彩を放つて居る。支那四千年の外交史――屈辱的失敗的外交史――は、彼によつてわづかにその面目を維持し得たというても、甚しき誇張の言であるまい。
試みに秦以後の支那の外交史を達觀すると、漢の高祖は群雄平定の餘威を藉り、三十萬の大軍を率ゐて匈奴を親政したが、白登の一敗に意氣銷沈し、或は宗女を與へ或は金帛を遺り、ひたすら彼等の歡心を買うた。高祖の崩後、漢の君臣は專心この政策を襲踏して、如何なる匈奴の慢辱をも神妙に我慢して居る。この間武帝の如き一二豪傑の君主が出て、北狄征伐を行うたけれど、要するに九失一得、功は勞に酬ひずといふ有樣であつた。支那の史家は歴代の對異族策を評して、周は上策を得、秦は中策を、漢は下策を得たと評して居る。周は果して上策を得たか否かは疑問であるが、漢一代の對異族策は、始皇のそれに比すると、費は多くして功は尠いといふ事實を否定することが出來ぬ。
三國西晉以降は、五胡跋扈の時代で、無頓著な支那人すら、神州陸沈、華胄左衽と憤慨して居る時代であるから、事々しく茲に贅する必要がない。唐の太宗は古今の英主である。天下併合の後ち、異族に對しては、武斷主義を實施する素志もあつたが、當時の大臣の兵凶戰危の説に動かされて、遂に懷柔和親策を執ることとなつた。唐一代の間、四裔の君長に、請ふが儘に所謂和蕃公主を下嫁せしめたのは、この政策の結果である。「美人天上落。龍塞始應[#レ]春」と詠はれた永樂公主も、「九姓旗旛先引[#レ]路。一生衣服盡隨[#レ]身」と詠まれた太和公主(?)も、皆この政策の犧牲となつた和蕃公主である。しかし貪婪※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]くなき夷狄は、通婚のみで羈縻されるものではない。朝に公主を送ると、夕に金帛を求むるといふ有樣であつた。結婚と贈遺とによつて異族を緩和して、その劫掠を免るるといふのが、漢・唐――漢族の國威の尤も揚つたと稱せらるる――を通じて、對異族策の大方針であつたが、結果はやはり不首尾で、羽檄の飛ぶことも、烽火の擧ることも、依然として減少することがなかつた。
宋に於ける契丹・西夏・女眞、明に於ける北虜・南倭の事蹟も、茲に絮説を要せぬ。元・清二代は、天下を擧げて異族の臣妾となつた時代、固より批評すべき限りでない。過去二千年の積弱累辱此の如しとすれば、この間に在つて、南は越人を服し、北は匈奴を攘つて、盛に殖民政策を實行した始皇は、確に中國民族の一大恩人といふべきである。殊に種族革命の成功した中華民國の今日、始皇こそ百代に尸祝さるべき偉人であるまいか。
十
私は已に始皇帝の内外の事業を敍述したから、茲に彼の人物に就いて一言いたさう。始皇は細心にして放膽なる政治家であつた。更に又よく己を虚くして人に聽き、衆に謀つて善く斷ずる政治家であつた。『史記』に始皇帝の政治振りを載せて、天下の事大小となく、皆自身で裁決して、臣下に委任せぬ。その日所定の裁決を終らぬと、夜中になつても休息せぬと記してある。或は之を以て彼が權勢を貪る故と、非難するのは間違ひである。主權を人に假さぬのは法家の極意で、刑名學を好んだ蜀漢の諸葛亮が、細事を親裁したと同樣、寧ろ始皇の勤勉細心なる證據とすべきである。
始皇は細心であると同時に大膽であつた。六國を滅ぼした彼が、如何にその遺族舊
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