嚮け、國内の安全を圖るのを、得策と考へたものと見える。
 〔越人征伐〕 始皇は先づ南に向つて越人征伐に着手した。越人は今の浙江・福建・廣東・廣西四省から、安南地方にかけて蔓延して居つた種族で、幾多の部落に分裂したから、百越と呼ばれて居つた。春秋の末期より次第に中國の舞臺に活動して來た。有名なる越王勾踐の如き、その君主こそ夏の後で、漢族と稱して居るけれども、國民は皆この越種族であつた。始皇は六國を統一すると間もなく、江を越えて次第に越人を征服し、その地を※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]中(福建)、桂林(廣西)、南海(廣東)、象郡(安南)の四郡に分ちて中國に加へ、又ここに漢族五十萬人を移住させた。漢族の南方殖民はこの時から始まつて、代一代と發展した。近くフランスが後印度方面に勢力を扶植するまで、二千年の間、南海諸國は常に支那を宗主と仰いだ由來も、ここに起源するのである。
 殊に始皇の南方經略によつて、海上交通の門戸が開けた。南海の番禺、象郡の交趾――過去二千年間絶えず外國貿易船の輻輳したこの二都會――が、始めて中國民族の手に歸したからである。是より象牙・犀角・※[#「王へん+毒」、第3水準1−88−16]瑁・珠※[#「王へん+幾」、第3水準1−88−28]等殊域の産物の輸入が日に多きを加へる。やがて中國の市舶、大秦の賈船の往來が始まるといふ風に、東西交通の序幕が、茲に開けることとなつた。
 〔匈奴征伐〕 始皇は更に北の方匈奴を驅逐した。支那の歴史に據ると、匈奴の祖先は淳維といひ、夏の桀王の後と稱して居る。夏の後などは、固より信憑するに足らぬが、その祖先の淳維といふ名が訛つて、匈奴といふ種族の名となつたものであらう。始祖の名を其の儘種族の名とすることは、北狄に普通の慣習である。匈奴の文字は戰國時代から始めて使用されて居る。その以前は或は※[#「けものへん+嚴」、第4水準2−80−56]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]《ケンイン》、或は※[#「けものへん+僉」、第4水準2−80−49]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]或は葷粥・薫育・※[#「けものへん+熏」、第4水準2−80−53]鬻《クンイク》等、區々一定して居らぬ。しかし何れもフンニの音譯で、ただその文字を異にしたのみである。即ち西暦四世紀の頃から西洋史上に現はれ來るフン種族のことである。この種族は上古から絶えず漢族を劫掠して、尠からざる迷惑を加へて居る。周の祖先の古公|亶父《タンポ》が、岐山へ避難したのも、※[#「けものへん+熏」、第4水準2−80−53]鬻の爲である。西周末の詩人が、靡[#レ]室靡[#レ]家と嗟嘆したのも、※[#「けものへん+僉」、第4水準2−80−49] ※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]の爲である。始皇帝は天下一統の後ち、蒙恬《モウテン》を將として兵三十萬を率ゐて匈奴を征伐せしめて、悉く之を黄河以北に驅逐した。攘ひ斥けた地面に三十四縣――或は四十四縣とも傳ふ――を置き、ここに漢族數萬家を移住せしめ、所謂萬里の長城を築きて、華夷の疆界を嚴重に限定した。
 北狄の侵入に對して長城を築くことは、必ずしも始皇帝の時に創つたのではない。『詩經』によると、西周の末頃から、朔方に城きて※[#「けものへん+嚴」、第4水準2−80−56]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]を防いで居る。降つて春秋戰國の交から、秦・魏・趙・燕等北邊の諸國は、相繼いで北狄を防がん爲に、長城を築いたことがある。始皇帝は幾分これら以前の長城を利用して、萬里の長城を作つたものと見える。その萬里の長城は、今の甘肅省鞏昌府附近から起つて、黄河の外を廻り、今の山西・直隷二省の北邊を縫うて、盛京省の東部に達したのであるから、勿論今日現存の長城とは、大いに相違して居る。今日の長城は、秦以後西漢・後魏・北齊・北周・隋・明時代に渉つて、幾度となく増築又は改築されたものである。

         八

 〔領土の膨脹〕 かく南に北に異族を攘うて土地を拓いた結果、始皇帝時代に於ける漢族の版圖は、空前に擴大された。儒者は唐虞三代を黄金時代と稱揚するけれども、その時代の漢族の勢力圈は、甚だ狹隘であつた。周時代でも、漢族の根據地の所謂中國は、黄河の左右に限られ、今の地理でいへば、大略河南省の全部と、陝西・山西・直隷・山東・湖北の一部に過ぎぬ。殊に白狄・赤狄を始め、犬戎・小戎・驪戎等の異族の、その間に雜居するもの多く、齊・秦・楚・呉・越等邊裔の國となると、言語風俗など隨分漢族と相違して居つたのである。秦の始皇帝が四圍の異族を攘うてから、漢族の勢力範圍は、周の初に幾倍し、その四十郡――もとの三十六郡に、後に拓いた四郡を加へて――の廣袤は、殆ど今の支那本
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