る程、大なる損害はなかつたものと察せられる。殊に秦の朝廷には七十人の博士があつて、その藏書は無難の筈であるから、秦火災厄の程度は愈※[#二の字点、1−2−22]輕小といはねばならぬ。その後ち楚の項羽が關中に入つて、咸陽の宮殿を一炬に焚き盡した時、官府所藏の典籍多く灰燼に歸したので、古書佚亡の責は、始皇よりも咸陽を焚いた項羽、若くば項羽に先だつて關に入りながら、官府の藏書の保護を怠つた、劉邦や蕭何らが負ふべき筈である。
思想統一の爲、君權擁護の爲とはいへ、天下の書籍を焚くなどは、勿論贊むべきことでないが、ただ世人は焚書事件のみを知つて、その當時の事情と實際とを察せぬ者が多いから、聊か始皇の爲に辯じたのである。
六
〔坑儒〕 始皇帝は挾書の禁令發布の翌年に、諸生四百六十餘人を咸陽に坑殺した。世に所謂坑儒事件である。この事件も根本史料の『史記』を調査すると、後世の所傳は、事實を誣ふるもの、尠からざることが發見される。
戰國の頃から、不死の靈藥を求むることを專門とする、方士といふ者が出來、燕・齊・楚等の諸國王は、何れも方士を信任した。始皇帝も亦當時の風潮に從ひ、幾多の方士を寵用したが、その方士の中で侯生・盧生の二人は、始皇帝を詒き、不死の藥を求むる費用として萬金を貪つたが、固より藥は見當る筈なく、早晩詐僞暴露して、罪に處せられんことを恐れ、行掛けの駄賃に、散々始皇を誹謗して逃亡した。始皇は金を騙られし上に、惡口されしこととて大いに怒り、侯盧二生と日夕往來して、朝廷や皇帝を誹謗した在咸陽の諸生を驗問させた。所がこれら諸生は、徒に一身を免れんが爲に、卑劣にも甲は乙に、乙は丙にと互に罪を他人に嫁したから、拘引の範圍は次第に廣まり、遂に四百六十餘人の檢擧となつたが、眞の犯罪者は發見出來ぬ。始皇も處置に窮して、容疑者全體を坑殺することとした。これが所謂坑儒事件の實相である。
右の事實に由つて觀ると、坑殺された諸生は多く方士である。其うち幾分儒生も混じて居つたやうであるけれど、此等の儒生とても、咎を人に嫁して平然たるが如き破廉恥漢で、儒生の名あつて儒生の實なきものである。殊に彼等は何れも誹謗妖言の犯罪容疑者である。無辜の儒者を、何等の理由なくして殺戮したものと、同一視することは出來ぬ。
犯罪容疑者を擧げて無差別に坑殺したのは、やや亂暴の譏を免れぬが、當時の事情を斟酌すると、これにも多少恕すべき點がある。罪は輕きに從ひ賞は重きに從ふとは、儒家の意見で、法家はその反對に、罪は重きに從ひ、賞は輕きに從ふを原則として居る。法家の説を信奉する始皇帝が、罪の疑はしき者に對して、嚴に從つて處罰したのは、その所信に忠實なる結果である。彼は終始この主義を一貫して居る。坑儒事件に就いてのみ、無情過酷であつた譯ではない。
始皇は一日丞相李斯の途中行列が、餘りに堂々たるを見て、君主の位置を無上絶對に置く彼は、甚だ不平であつた。下尅上の漸とならんことを恐れてである。然るにその翌日から、李斯は打て變つて、その前騎從車の數を減じた。始皇は之を見て、我が不平を李斯に内通した者があるとて大いに怒り、左右の者を案問したが、遂にその人を認め得なんだから、當日左右に侍した者一同を捕へて、死罪に處したことがある。又その後ち、東郡地方で石に始皇帝死而地分の七字を刻した者があつた。始皇は官吏を派遣して、その犯罪者を搜索したが、目的を達し得ずして、遂に附近の住民一同を死罪に處したこともある。此等の事件を坑儒事件と對比すると、始皇の主義も自から理會することが出來る。
若し坑儒事件の當時に、四百六十餘人の諸生中に、一人でも男子らしい者があつて、自からその犯罪を名乘り出で、一同の犧牲となつたならば、決して彼が如き大事を惹き起さなんだに相違ない。坑儒事件に就いては、始皇の暴戻を責めんより、むしろ諸生の卑怯を憫むべきことと思ふ。
私は上數章に渉つて、始皇の内政の重なる點を紹介したが、之によると、彼の政策は多少非難すべき所があつても、大體に於いて時勢に適切であつたことは、否定すべからざる事實である。その他始皇は天下の武器を沒收したこともある。地方の城壁を撤去したこともある。また天下の富豪十二萬戸を國都咸陽に移住させたこともある。何れも割據の餘風を破つて、一統の實效を擧げ、地方を彈壓して、中央を鞏固にするには必要なる政策といはねばならぬ。
七
眼を轉じて始皇帝の外交策を見ると、彼は徹頭徹尾對外硬であつた。彼は南北に向つて異族征伐を實行し、帝國主義を發揮して居る。この異族征伐には、かのアレキサンダー大王のアジア征伐の如く、豐太閤の朝鮮征伐の如く、一種の政略をも含んで居るのは勿論である。六國を討平した彼は、異族征伐か外國侵略によつて、國民の注意を外に
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