[#二の字点、1−2−22]天下を巡行したのも、全く同樣の趣旨で、近くはわが明治天皇が、維新以來、或は東海、或は奧羽、或は北陸と巡幸せられたのも、或は同一の理由に本づくことと拜察されるのである。

         五

 〔焚書〕 始皇帝の施政中、尤も後世の不評を招いたのは、いはゆる焚書・坑儒の二點である。世の學者は多く之によつて彼を人道の敵、文教の仇と信じて居る。如何にも焚書・坑儒は、多少亂暴であつたかも知れぬ。しかし之にも幾分の理由がある。一概に始皇帝のみを非難し去る譯にはいかぬ。
 學者の羨稱おかざる夏・殷・周の三代も、專制時代である。決して後人の想像するが如き、自由の世ではなかつた。造言の刑とか亂民の刑とか、若くは左道の辟とか稱して、すべて恢詭傾危の言を弄して、民心を蠱惑する者は、容赦なく國憲に處して居る。然るに周室衰へ、春秋より戰國と、世の降る儘に、實力競爭時代となつて、諸侯は何れも天下の人材を羅致して、國の富強を圖ることとなつた。かく人材登傭の途の開けると共に、處士横議の弊が釀し初めた。
 戰國時代に於ける處士の跋扈は、隨分厄介な問題であつた。孔子すら不[#レ]在[#二]其位[#一]不[#レ]謀[#二]其政[#一]というて居るに、彼等は何れも無責任不謹愼なる政治論を敢てして、治安を害し、民心を惑はすのである。温良なる孔子すら、衆を聚めて奇を衒つた少正卯を誅殺したではないか。當時の政治家にとつて、處士の横議は到底其儘に看過し難い程であつた。心ある政治家は早く之を抑壓するに腐心し初めた。或者は更に進んでその檢束に着手し、且つ又處士横議の源泉となるべき書籍、即ち當時の政治に反對せる思想を載せた、書籍の處分さへ實行したものもある。秦の如きはその一例で、已に孝公の時から、民間の政治論を禁じ、犯す者は國境以外に放逐し、治安に害ありと認めた、『詩經』『書經』等の古典を焚いたことがある。
 戰國の末に出た韓の韓非は、その著『韓非子』のうちに、國を治むるには、法律とその法律を執行する官吏とあれば十分である。この以外に先王の道とか、聖人の書とかの必要はない。然るに今天下到る所に、儒者と稱する者あつて、古聖の書を引いて當世の政を誹り、上下の心を惑はしむるは、甚だ不都合千萬である。先づこの儒者を除き去ることが、刻下の急務であると主張して居る。韓非と同時の秦の呂不韋も亦、その著『呂氏春秋』のうちに、略同樣の意見を述べて居る。
 始皇帝はかねて韓非を崇拜して居つた。寡人得[#下]見[#二]此人[#一]與[#レ]之游[#上]、死不[#レ]恨矣とさへいうた程である。呂不韋は始皇即位の初に、國政を委ねた大臣で、然も始皇の實父とさへ傳へられて居る。この韓非、この呂不韋、何れも處士を抑へ古書を除くべしと主唱する以上、始皇は最初より處士と古書の處分に腐心して居たのは、むしろ當然のことと思はれる。かかる事情の下に、彼の尤も信任せる丞相の李斯が、思想統一の爲、君權擁護の爲、異端邪説に關係ある古書を禁止せんことを上書したから、始皇は直に之を納れ、遂に所謂挾書の禁、焚書の令が發布されたのである。
 秦の焚書は、文運の大厄であつたことは申す迄もない。しかし世人は多くその書厄を過大視して居るやうである。現に『舊唐書』などにも、三代之書經[#レ]秦殆盡と記してあるが、こは誇張の言で、頗る事實を誣ふるものといはねばならぬ。始皇の典籍を銷燬した記事は、詳に『史記』に載せてあるが、之を熟讀すると、左の事實を否定することが出來ぬ。
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(イ)秦に不利益な記事の多い六國の史料は焚いたが、秦の史料は焚かぬ。
(ロ)醫藥・卜筮・農業に關係ある書籍は、民間に使用して差支ない。
(ハ)上記以外の書籍、殊に『詩經』『書經』及び諸子百家の書は、一切民間に所藏することを禁じ、必ず禁令發布後三十日以内に官省に差出さしめて、之を燒棄した。
(ニ)朝廷所屬の博士は、如何なる書籍を所藏しても差支ない。
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 故に民間一般の書籍を燒棄したのは事實であるが、煩雜なる古文を竹簡に漆で書いて、書籍を作つた當時のこととて、書籍の價も甚だ不廉で、且は携帶にも頗る不便であつたから、民間の藏書の案外貧弱であつたことは申す迄もない。先秦時代に藏書の多きことを、五車の書と稱するが、竹簡に寫した書籍が五車に滿載する程あつても、今日の印刷にすれば、誠に貧弱なものである。されば當時の學者は、大抵は書籍を貯藏するよりも、書籍を諳誦したのである。東漢時代に紙が發明され、寫書やや容易となつた頃にも、民間では依然諳誦の風を繼續して居つた。また當時『公羊傳』『穀梁傳』等の如く、專ら口傳により、未だ竹簡に載せられなんだ書籍も多かつたから、天下の書を焚くといふ條、世人の想像す
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