臣の怨府となつて居るかは、彼自身は萬承知して居る。前には荊軻の匕首閃き、後には張良の鐵椎が投げられた。尋常一樣の君主であつたら、必ず警戒して出遊せぬ筈であるが、彼は何等顧慮する所なく、連年巡幸を繼續した。支那流に膽斗の如しと讚しても差支なからう。
始皇は又世人の設想とは反對に、よく人の諫を容れた。二三の實例を示すと、第一が※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522−10]※[#「士/毋」、読みは「あい」、522−10]《キウアイ》事件である。※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522−10]※[#「士/毋」、読みは「あい」、522−10]は太后の寵を負ひ、亂を起して失敗し、その黨與は皆重きに從つて處分せられ、太后もこの關係から雍の離宮に移された。この母后の處置につき、齊人の茅焦が死を冒して苦諫した時、始皇は殿を下り、手から茅焦を扶け起し、その諫を聽き、母を咸陽に迎へ取つて、舊の如く厚遇したことがある。
第二は逐客事件である。始皇は宗室大臣の意見により、他國の産で秦に來り仕へ居る者は、信用し難いといふ理由から、一切之を放逐することにした。この時楚人の李斯は上書して、逐客の利少く害多きを述べ、「泰山不[#レ]讓[#二]土壤[#一]。故能成[#二]其大[#一]。河海不[#レ]擇[#二]細流[#一]。故能就[#二]其深[#一]」の名句を陳《つら》ねたから、始皇は之に動かされ、已に歸國の途中に在つた李斯を召還して、逐客の令を撤囘したことがある。
第三は伐楚事件である。始皇は楚を伐たんとて、之に要すべき兵數の多寡を諸將に尋ねた時、李信は二十萬にて可なりといひ、王翦は六十萬を要すと答へた。始皇は李信に聽き、之に二十萬の兵を授けて出征させたが、却つて大敗した。そこで始皇は不面目を忍び、態※[#二の字点、1−2−22]當時不滿を懷いて故山に歸臥せる王翦の宅を訪うて、再三その出征を懇願し、遂に楚を滅ぼしたことがある。
此等の實例を見ても明白なる通り、始皇はたとひ諫に從ふこと流るるが如しと迄の雅量はなくとも、過を飾り非を遂ぐる程狹量の人ではない。始皇の評に必ず引用される暴戻自用といふ語は、もと侯生や盧生が始皇を誹謗せんが爲に發した語で、之によつて始皇を評し去るのは、片言を過信するもので、酷といはねばならぬ。
十一
始皇が果斷の人であることは、故《ことさ》らに茲に申し添へる必要がない。天下統一の後ち、群臣の多數は封建再興を主張したに拘らず、彼は敢然として郡縣の治を行うた。文字の整理といひ、古典の處分といひ、尋常の政治家では、到底一朝に實行し得ぬ大問題を、彼は何ら遲疑する所なく斷行した。始皇が天下の共主となつたのは、僅々十年餘に過ぎぬ。この短年月の間に、比較的多大の事業を實行し得たのは、全く彼の果斷の賜である。
多くの偉人に普通であるが如く、始皇も亦豪華を喜ぶ性質を具へて居る。驪山の陵の如き、司馬遷の記する所、劉向の傳ふる所は、勿論幾多の誇張を加へてあるけれども、その規模構造が、厚葬の風の盛な當時にあつても、人の視聽を聳かしたのは事實に相違ない。爾後幾度の破壞發掘の厄を累ねて、頗る原形を損した現在の陵――見る影もなく荒廢して居るが――でも、猶方二百間、高さ十八間許りの宛然たる一阜丘で、當年の榮華を髣髴の間に認めることが出來る。其他咸陽の國都といひ、阿房の宮殿といひ、萬里の長城といひ、彼の計畫したものには、どこにか雄大の面影を存して居る。或はこの間に幾分、「不[#レ]覩[#二]皇居壯[#一]。安知[#二]天子尊[#一]」といふ一種の政略も含まれて居つたかも知れぬ。
或は始皇帝の專ら刑法に依頼して、仁義を蔑視するのを非難する者がある。如何にも始皇には多少刻薄少恩の憾ないではない。しかし彼は法家の信者である。法家には仁義が禁物である。かく考へると、始皇が孔孟仁義の道を忽にしたのも、誠に已を得ざる次第といはねばならぬ。一體春秋から戰國にかけては、亂臣や賊子の輩出した時代で、君主の位置は甚だ不安であつた。そこで成るべく君主に多大の權力を與へて、油斷ならぬ臣民――人性を惡と觀ずるのが法家の説である――を威壓して、國家の安全を保つといふのが法家の主張で、この主張は孔孟の學説よりは、確に時代の要求に適して居つた。等しく儒學の正統と自稱せるに拘らず、孔子の主張した仁は、孟子になると義と變じ、荀子に至ると更に禮に變ずるといふ風に、儒家の教義が次第次第に具體的となり、又消極的となつて來たのは、全く當時の外界の事情に促された變化である。老子はその『道徳經』のうちに、
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失[#レ]道而後徳。失[#レ]徳而後仁。失[#レ]仁而後義。失[#レ]義而後禮。
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と述べて、この順序で世間が段々と
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