澆季になるといふのであるが、不思議にもこの豫言が事實となつて現はれて居る。即ち老子自身は道と徳とを説き、次に出た孔子は第三の仁を説き、孟子は第四の義を、荀子は第五の禮を説いた。この次に今一歩進めて具體的消極的となるには、法律より外ない。この事情がやがて法家の起源を説明し、併せて始皇が法術に依頼して、天下を治めた理由を、説明し得ることと思ふ。
十二
支那人は元來保守主義に囚はれて居る。「述而不[#レ]作。信而好[#レ]古」とか、「率[#二]由舊章[#一]」とか、彼等は一切の革新を罪惡視して居る。西晉時代に嘗て黄河に橋を架せんと計畫した時、堯舜すら實行せなんだといふ理由で、朝臣の多數が反對した。かかる國民の間に、始皇の如き革新的色彩を帶びた政治が、不[#レ]師[#レ]古底の暴政として排斥されるのは、已むを得ぬ次第である。
支那人は又平和主義に囚はれて居る。天子守在[#二]四夷[#一]とか、王者不[#レ]治[#二]夷狄[#一]とか、彼等は消極退守を以て、無上の安全策と信じて居る。昔舜が千羽を舞はして、三苗を來服せしめたのが、彼等の理想である。七徳の舞には首を俛し、九功の舞には顏を抗《あ》げるのは、魏徴一人に限らぬ。かかる國民が始皇の攘夷拓地を以て、兵を窮め武を涜すものとして、贊成せぬのも無理ならぬことである。
秦の榮華は一朝であつた。始皇がその三十七年に、東南巡游中に病に罹つて崩御すると、その後を承けた少子の胡亥は、やがて宦者の趙高に弑せられ、孫の子嬰は間もなく劉邦(漢の高祖)に降つて秦は亡びた。萬世までもと豫期した始皇の望は絶えて、彼の崩後三年の間に、社稷覆るとは誠に悲慘な末路であるが、之が爲に始皇を輕重することは出來ぬ。帝政は約十年にして倒れても、ナポレオンの豪傑たることは否定出來ぬではないか。豐臣家は二世で滅びても、太閤の英雄たることは否定出來ぬではないか。人間の眞價は年月に在らずして、事業に存するのである。始皇は年五十、長生とはいへぬ。四海統一後の在位僅に十二年、むしろ短祚といはねばならぬ。しかし大なる事業をなした。驪山の陵が夷げらるることがあつても、長城の礎が動くことがあつても、支那史乘に於ける始皇の位置は確固不拔であらう。
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