《ことさ》らに茲に申し添へる必要がない。天下統一の後ち、群臣の多數は封建再興を主張したに拘らず、彼は敢然として郡縣の治を行うた。文字の整理といひ、古典の處分といひ、尋常の政治家では、到底一朝に實行し得ぬ大問題を、彼は何ら遲疑する所なく斷行した。始皇が天下の共主となつたのは、僅々十年餘に過ぎぬ。この短年月の間に、比較的多大の事業を實行し得たのは、全く彼の果斷の賜である。
 多くの偉人に普通であるが如く、始皇も亦豪華を喜ぶ性質を具へて居る。驪山の陵の如き、司馬遷の記する所、劉向の傳ふる所は、勿論幾多の誇張を加へてあるけれども、その規模構造が、厚葬の風の盛な當時にあつても、人の視聽を聳かしたのは事實に相違ない。爾後幾度の破壞發掘の厄を累ねて、頗る原形を損した現在の陵――見る影もなく荒廢して居るが――でも、猶方二百間、高さ十八間許りの宛然たる一阜丘で、當年の榮華を髣髴の間に認めることが出來る。其他咸陽の國都といひ、阿房の宮殿といひ、萬里の長城といひ、彼の計畫したものには、どこにか雄大の面影を存して居る。或はこの間に幾分、「不[#レ]覩[#二]皇居壯[#一]。安知[#二]天子尊[#一]」といふ一種の政略も含まれて居つたかも知れぬ。
 或は始皇帝の專ら刑法に依頼して、仁義を蔑視するのを非難する者がある。如何にも始皇には多少刻薄少恩の憾ないではない。しかし彼は法家の信者である。法家には仁義が禁物である。かく考へると、始皇が孔孟仁義の道を忽にしたのも、誠に已を得ざる次第といはねばならぬ。一體春秋から戰國にかけては、亂臣や賊子の輩出した時代で、君主の位置は甚だ不安であつた。そこで成るべく君主に多大の權力を與へて、油斷ならぬ臣民――人性を惡と觀ずるのが法家の説である――を威壓して、國家の安全を保つといふのが法家の主張で、この主張は孔孟の學説よりは、確に時代の要求に適して居つた。等しく儒學の正統と自稱せるに拘らず、孔子の主張した仁は、孟子になると義と變じ、荀子に至ると更に禮に變ずるといふ風に、儒家の教義が次第次第に具體的となり、又消極的となつて來たのは、全く當時の外界の事情に促された變化である。老子はその『道徳經』のうちに、
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失[#レ]道而後徳。失[#レ]徳而後仁。失[#レ]仁而後義。失[#レ]義而後禮。
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と述べて、この順序で世間が段々と
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