判定するより外はない。事實が最後の裁決者である。
二
始皇帝は孝公五世の孫、秦の莊襄王の子で、年十三の時、父の後を承けて秦王となつた。その最初の十年間は、政を大臣、殊に相國の呂不韋に委ね、二十三歳の時から萬機を親しくした。彼は爾後十六年間に天下を統一した。即ち西暦前二百三十年に韓を滅ぼしたを手初に、趙・魏・楚・燕といふ順序に列國を併せ、西暦前二百二十一年に、最後の齊を滅ぼして天下を統一した。始皇帝五世の祖に當る孝公が、かの商鞅を任用して、富國強兵の大政策を建ててから、天下の大勢は已に秦に歸しかかつて居たが、始皇帝の親政時代、僅々十數年の間に、首尾よく一統の實を擧げ得たに就いては、彼の功績も亦尋常ならずといはねばならぬ。
天下統一後に實行した始皇帝の事業は、中々多端であるが、要するに内政と外交とに區別することが出來る。内政では君權の擴張、外交では漢族の發展が主眼となつて居る。從つて彼一代の政策は、尊王攘夷の實現に在るとも解釋し得るのである。先づ内政の主要なるものを列擧すると下の如くである。
〔君主專有の名稱撰定〕 始皇帝は法家の説を奉じて居る。君主の位置は無上絶對、あらゆる點に於て、下民と儼然たる區別がなければならぬといふ信條から、彼は六國統一の年に、君主のみに限り使用し得べき名稱を制定した。その四五の實例を示すと、
(イ)皇帝 始皇帝以前の君主は皆王と稱した。夏・殷・周三代の君主は、何れも王と稱して居る。所が春秋時代となつて、周の王室が衰微すると、楚・呉・越等南蠻の國君が王號を僭し初め、降つて戰國時代となると、中國の諸侯達も亦之に倣ひ、最後に陪臣より諸侯となつた韓・魏・趙の三晉の君すら王と稱して、王號の價値は甚だ低落して來た。そこで國富み兵強き大諸侯は、最早王號では滿足出來ず、別に他の美號を稱したものもある。始皇帝の曾祖父に當る昭襄王が、齊の※[#「さんずい+緡のつくり」、第4水準2−78−93]王と約して、一時相並んで、西帝東帝と稱したのもこの理由に本づく。六國を討平し海内を混一した始皇帝が、今更王號や帝號を襲ぐを潔とせず、新に一層の美號を採用せんとするのは、必然の要求といはねばならぬ。かくて彼は群臣の意見を參酌し、その功徳は古の三皇五帝を兼ねたりとて、皇帝と稱することとなつた。
(ロ)朕 先秦時代には朕は一人稱として、上下の區別な
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