く使用された。楚の屈原の離騷にも、その父のことを朕皇考と書いてある。然るに始皇の時から、朕は皇帝專有の一人稱となつた。
 (ハ)陛下 臣民が天子を呼ぶに陛下と稱するのは、始皇以後のことで、秦以前には見當らぬ。『史記』の始皇本紀が、この字面の出處であらう。
 (ニ)詔 詔は告知の義である。秦以前には、上下ともにこの字を通用した。『左傳』に晉の將|欒書《ランショ》が※[#「安/革」、読みは「あん」、507−12]の役に齊軍を打ち破つて、國に凱旋の日、功を同僚の士※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−87−67、507−13]《しせふ》に讓つて、今囘の戰勝は士※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−87−67]の軍令宜しきを得、部下よくその命を聽きし故なりといへるを記して、「※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−87−67]之詔也。士用[#レ]命也」とある。始皇の時から天子の命令に限つて詔と稱することとなつた。
 (ホ)璽 玉にて作つた印を璽といふ。秦以前は上下の區別なく之を使用した。『韓非子』に秦の甘茂といふ人が、太僕といふ官につき、兼ねて行人の職を執つたことを、佩[#二]僕璽[#一]而爲[#二]行事[#一]と記してある。僕璽とは太僕の官印のことである。始皇の時に天子の印に限つて玉を用ゐ、之を璽と稱することとなつた。
 これらの規程は、要するに始皇帝が金科玉條と奉じて居る、尊君抑臣主義の一端を發揮したに過ぎぬ。先秦の歴史を通覽すると、代一代と君權漸長の痕を認めることが出來る。周禮の作者たる周公旦の如きは、君權擴張の棟梁である。天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟、士は一廟とか、天子の堂は高さ九尺、諸侯は七尺、大夫は五尺、士は三尺とか、天子に崩といひ、諸侯に薨といひ、大夫は卒、士は不禄、庶民は死といふとか、天子の墳には松を樹ゑ、諸侯は柏、大夫は欒、士は槐、庶民は楊柳を樹うるとか、あらゆる方面に於て、煩瑣なる規程を設けて、上下の區別を嚴にしたのは周時代である。始皇帝は要するに古來漸長しつつあつた、尊君抑臣主義を大成した人といはねばならぬ。漢以後陽に秦を非難しつつ、陰に秦にならつて、是等の名稱を採用して居るのは、始皇の政策が時代の要求に適した證據ともいへる。

         三

 〔諡法の廢除〕 諡《おくりな》は周よりはじまつたもので、『逸周書
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