支那猥談
桑原隲藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)袖下《そでのした》

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(例)抑※[#二の字点、1−2−22]|晩矣《おそし》と

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(例)態※[#二の字点、1−2−22]
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         一

 吾が輩は今支那の時事問題について格別の意見をもつて居らぬ。それに新春早々に當つて、堅苦しい論文より幾分氣樂な隨筆の方が却つて似付かはしい心地もするので、標題の如き支那猥談を草することにした。猥談は要するに猥談であるが、その猥談の中にも、若干支那及び支那人に對する理會を助け、日支の外交上參考に資すべき材料を發見し得るかと思ふ。
 支那は謎の國である。誰人も支那の現在及び將來は難解といふ。これは事實である。されどその謎といひ難解といふ中に、一方では支那そのものが難解であるに加へて、他方では之を取扱ふ研究者側にも不行屆の點があつて、難解のものを一層難解に陷らしむる實情がないでもない。支那にも歴史がある。世界の何國よりも長い歴史をもつて居る。この歴史を無視して支那を十分に理會し得る筈がない。
 所謂支那通と稱し、若くば稱せらるる人達の多數は、この方面の用意に缺くる所があつて、謎の支那を一層難解に陷らしむるのではなからうか。彼等の多數は現在若くば最近十數年位の限られた智識や報告によつて支那を解釋せようとする。そこに弱點があるまいか。現在の事情を明かにすることは勿論必要であるが、現在のみに即して長い過去を閑却してはならぬ。過去を離れた現在の事情のみから歸納した斷案は、基礎が薄弱を免れぬ。現在の事情は過去の智識に照らして、始めて完全に了解することが出來、過去の智識は現在の事情を明かにして、始めて有效に活用することが出來る。温故知新が支那及び支那人を十分に理解する一良法と思ふ。この猥談が若し温故知新の一助となり、猥談が必ずしも猥談のみに終らなかつたならば、望外の幸である。

         二

 去る大正十二年五月六日に突發した臨城事件、即ち津浦鐵道の臨城驛(山東省の西南部)附近で、約一千の土匪が通過の列車を襲撃して、多數の乘客を掠奪し、殊に乘合せた英米等の諸外國人二十餘名を捕虜にした事件は、頗る世界各國を驚殺させた。パリにワシントンに、民國の顧維鈞氏等が先頭に立つて、支那の覺醒を大呼宣傳した直後ではあり、支那の覺醒に多大の信頼を置いた諸外國人、就中もつとも支那を買被つて居つた米國人等は、この現實の暴露に狼狽し喫驚《びつくり》したのは無理でない。彼等がこの列車に一人の日本人も便乘して居なかつたといふ偶然の事實に揣摩を逞くして、或は日本人が土匪を指嗾したのではなからうかなどと疑惑を挾んだ者があつたに由つても、彼等の狼狽さ加減が推測される。
 併し此の如き事件は支那歴史上尋常の出來事である。殊に臨城附近の山東省西南部一帶の地は、古代から匪盜の叢窟であつた。曹〔州〕濮〔州〕――何れも山東省の西南地方――人といへば直に盜賊を聯想する程であつた。かの有名な水滸傳の中心舞臺として世に聞えた梁山泊も、實に此地方に在つた。水滸傳は小説としても、梁山泊の劇賊宋江等の事蹟は當時の事實である。明清時代を通じてこの遺風は改まらなかつた。膠州の徳人(ドイツ人)と黄河の氾濫と曹州の匪徒は、清末山東の三厄と稱せられた。臨城事件は畢竟覺醒したと稱せらるる現代の支那も、その内情は舊態その儘であるといふ一證據を提供したに過ぎぬ。
 無職の窮民が多く、同時に警察の不行屆な支那では、古來土匪や流賊が多い。必ずしも山東の一角に限らぬ。支那政府は少し手剛い土匪や流賊等に對しては、多くの場合、之を退治するよりは先づ之と妥協する。即ち利禄と官職とを以て彼等を誘ふのである。支那の記録にはこの妥協に誘ふことを招安といひ、この妥協に應ずることを歸順といふ。招安とか歸順とか文字は立派であるが、その内實は政府は征伐の危險を避ける爲め賊徒は利禄の安全を得る爲め、雙方妥協するに過ぎぬ。招安や歸順の實例は支那の何れの時代にも見出すことが出來る。それで宋時代から「欲[#レ]得[#レ]官。殺[#レ]人放[#レ]火。受[#二]招安[#一]」といふ諺があつた。放火殺人を行ひ、成るべく暴れ廻つて政府を手古摺らせ、然る後ち歸順に出掛けるのが、官吏となる出世法の一番の捷徑といふ意味である。隨分亂暴な諺だが、これが支那の實際である。現に臨城事件を起した土匪の如きも、政府を威嚇して招安に應じ、その六月十二日に首尾よく目的を達し、捕虜を解放すると交換に、一同軍隊に編入せられ、土肥の頭目は旅團長に、以下身分に應じて然るべき軍職に就いて落着して居る。
 この匪徒の招安に關して、古來種々の笑話が傳へられて居る。中にも南宋の頃に福建の海賊の頭目の鄭廣といふ者が歸順して、相當の官吏に取り立てられたが、その同僚は皆彼の泥棒出身であるのを輕蔑して、役所の會食の折にも彼一人だけを排斥するといふ風であつた。鄭廣は聖人面する彼の新同僚が、支那官吏の常習として、何れも中飽――袖下《そでのした》――を貪つて居ることを察知して、一日極めて皮肉な詩一首を作つて彼等の廻覽に供した。その詩は、
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鄭廣有[#レ]詩上[#二]衆官[#一]。文武看來總一般。衆官做[#レ]官却做[#レ]賊。鄭廣做[#レ]賊却做[#レ]官。
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といふので、その意味は諸君は官吏となつて賊を行ひ、僕は賊を行うて官吏となつたので、唯手段に前後の差あるのみで、畢竟同志と稱すべきものなるに、何が故に僕一人を排斥するかといふに在つたから、傷持つ一同は苦笑して、爾後その態度を改めたといふ。
 鄭廣が皮肉つた支那官吏の收賄聚斂は天下に著聞して居る。態※[#二の字点、1−2−22]事新らしく吹聽するに足らぬ。「爾俸爾禄。民脂民膏。下民易[#レ]虐。上天難[#レ]欺」と題してある、所謂戒石の銘が各衙門の正面に刻されてあつても、古來の弊風は少しも改まらぬ。民國以來この腐敗一層を加へたと傳へられて居る。ブランド氏は支那政府が日本を始め諸外國から借り受けた巨額の借款は、その名義の如何に拘らず、大部分は軍閥や議員や官吏の懷中に消え失せたと公言して居る。此等の事情を考へると、目下北京で開催中の關税會議によつて、首尾好く關税が増收されても、それが果して支那の内治の改良や國民の福利に資し得るかは、大なる疑問といはねばならぬ。極樂息子達に巨額の遺産を讓り渡した場合の樣に、軍閥や職業政治家が、この増收を目當に、一層の爭鬪や腐敗を助長する危懼がないでもない。萬一此の如きことありては、今囘の關税會議は豫期とは反對に、支那國内の紛爭の種を蒔く結果とならぬとも限らぬ。しかのみならず關税の増收は、却つて一般支那國民の消費税を加重する恐がある。されば關税増收の使途を、嚴重に監視若くば監督することは、支那には氣の毒でも、事情已むを得ざることかと思ふ。

         三

 支那人の性格や能力に就いて、種々の説が發表されて居る中で、吾が輩はリチャルド(夏之時)氏の支那人の智的能力に關する左の所説に深き共鳴を感ずる。
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〔過去に於ける〕支那の教育組織は國民の記憶力を發達せしめた代りに、その判斷力やその推理力を萎縮せしめた。故に支那國民の智識は散漫で表面《うはつら》で、統一を缺き、又徹底して居らぬ。彼等は全然批判的精神をもたぬ。彼等は原因と結果との關係に就いての思慮が十分でなく、又事件の全體を達觀することが出來ぬ。彼等の個人的若くば團體的行動の間に、多量の淺慮と盲信とを認めることが出來る。
[#ここで字下げ終わり]
此の所説を基礎として、支那の過去や現在を可なりよく了解することが出來るやうに思ふ。
 之に就いて憶ひ起されるのは支那の車夫である。現時は知らぬが、今から十年も以前に、北京や天津邊りを觀光した人は、誰も經驗する如く、支那の車夫は客を乘せると、その行先きを問ひ質さずに、自分勝手の方向に驀進する。若し、不幸にしてその乘客が土地不案内であると、まるで自分の目的とは反對の方向を引き廻され、車夫も無駄骨折をすることが稀でなかつた。同樣の缺陷が支那の學者に着き纏うて、彼等の研究は常に批判が十分でない。支那の學問の中心は經書に在るが、支那の學者は經書の解釋に全力を盡くす。此の如くして通志堂經解とか皇清經解とか續皇清經解とか、經書の解釋は文字通り汗牛充棟の多きに達するが、その經書の眞僞、さてはその製作年代等に就いては、彼等は殆ど研究の手を着けぬ。故に四書五經の中に、その來歴の徹底的に究明されたものは一部もない。支那の學者は畢竟本體の不明な經書の解釋に忙殺されて居るので、行先きを問ひ質さずに驀地《まつしぐら》に驅け出す車夫の態度と同樣である。
 車夫はどうでもよい。經學者もまあよい。されど一國の存亡安危を背負ふ支那の政治家も、この著しい缺陷をもつて居るのは、困つたことと申さねばならぬ。しばらく外交方面を見渡しても、支那の政治家は今もその傳統的の以[#レ]夷制[#レ]夷政策を改めぬ。この政策も稀に用ふると小利を博することもあるが、元來が他力本願で之を常用すると大害を招く。そは宋代の歴史が明瞭に教示して居る。宋は女眞(金)の力を手頼《たより》に、契丹(遼)を滅ぼしたのはよいが、それも束の間で宋自身も女眞の爲に支那の北半を占領され、契丹の時よりも一層の壓迫を受けた。蒙古(元)が起り、女眞の勢が傾くと、宋は復た女眞を裏切り、蒙古と協力して女眞を倒したのはよいが、やがて宋自身も蒙古に併呑されて仕舞つた。かかる過去の苦き經驗も、未だ支那の政治家を十分に覺醒せしむるに足らぬ。目前の打算に明かで大局の利害に暗い支那の政治家は、今も以[#レ]夷制[#レ]夷政策を固執する。之が爲に自國の開發を沮み、東亞の平和を害せしこと夥しい。
 昨年末に最後の日本訪問をした孫文氏は、その前後に、日本はアジアの一國であることを打忘れ、白人の仲間に加はり、その手先となつて彼等同樣の侵略主義を行うた。白人をして東亞に跋扈せしめた一半の責は日本人が負はねばならぬ。支那に排日の起つたのも當然である。日本は今後その非を改め、支那と提携して白人に對抗せなければならぬ。日支の親善が東亞の平和の保障で、その日支の親善は日本人が現實に努むべき義務があるかの如き意見を述べて居る。日支の親善の必要なることは、吾が輩も孫文氏と同感である。ただ氏が過去に於て日本がアジアの一國たることを打忘れたとか、侵略主義を取つたとか、乃至白人の跋扈を助長したとかの非難は、誣にあらざれば妄と申さねばならぬ。過去に於て支那人こそアジア人たることを打忘れた樣であるが、我が日本人は終始アジア人たることを忘れなかつたのみでなく、更に自餘のアジア人をしてアジア人たることを自覺せしめた。そは日露戰役が明白に之を立證して居る。

         四

 日露戰役はアジア人にとつては實に破天荒の一大事件であつた。アジアの一小島國たる日本が、その幾十倍もある白人の大強國たる露國と開戰して、見事之を打破つたといふ事實は、全アジア人に、否アジア人以外の有色種族にさへ餘程深大なる感動を與へた。白人東漸以來絶えず、その不法な壓迫を受けながら、到底抵抗は不可能と斷念して居つた黄人が、彼等も努力如何によつては、隨分白人の壓迫から離脱することが出來る。否、更に一歩を進め、白人に對して、痛快なる復讐をも成し遂げ得らるるといふ實例が示されたのである。
 日露開戰の少しく以前から、活動寫眞が次第に世間に持て囃されて來た。日露戰役はこの活動寫眞にとつて好箇の映寫物となつた。日露戰役の當時から爾後三四年間は、この戰役の活動寫眞が、アジア大陸到る處で空前の歡迎を受けた。印度人、ビルマ人、安南人、シャム人、支那人、南洋人等は、何れもこの活動寫眞を見物して年來の溜飮
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