を下げた。活動寫眞によつて不樣な露軍の敗走振りを見ると、自然彼等の腦裏に白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に對する反抗心が頭を擡げてくる。かくてアジア人のアジアといふ新思想が東洋の天地に瀰漫して來た。
 この新思想の勃興に對して、アジアに領土を有する白人一同に閉口した。今迄黄人と見縊り過ぎた白人は實際以上に黄人を警戒して、さてこそ黄禍説なども流行して來た。黄禍説は日清戰役の頃から世に現はれて來たが、その世界的になつたのは、日露戰役以後である。兎に角、日本人はアジア人のアジアといふ思想を喚起せしめて、全アジア人に覺醒の機を與へ、黄禍説が世界的になる程白人をして反省警戒する所あらしめた。從來傍若無人、氣儘氣隨であつた白人の侵略横暴も、日露戰役を境界として、一轉機と、一頓挫とを示して來た。
 之に反して支那人の無智と淺慮とは、常に白人をして東亞に干渉と專横の手を振はしむべき機會を與へた。日清戰役最後の三國干渉の如きその適例である。眞面目な儒者、忠實な憂國者として知られた、當時の兩江總督の張之洞すら、日本に割讓すべき臺灣を英露諸國に與へ、其援兵によつて日本を抑へる――速向[#二]英、俄(露國)、徳(ドイツ)諸國[#一]。懇切籌商。優與[#二]利益[#一]。訂立[#二]密約[#一]。……許以[#二]重酬[#一]。絶不[#二]吝惜[#一]……保[#二]京城[#一]。安[#二]中國[#一]。惟有[#下]乞[#二]援強國[#一]一策[#上]――其の以[#レ]夷制[#レ]夷の傳統的政策を上奏して居るではないか。其因果は覿面で、滿洲は露國に、山東はドイツに、威海衞は英國の手に歸した。張之洞などは其時になつて、始めて迷夢を覺まし、俄に保種とか保教とか西力の増進を警戒憂慮して、國粹主義を高唱し始めても抑※[#二の字点、1−2−22]|晩矣《おそし》と言はねばならぬ。
 李鴻章や張之洞の如き舊型の政治家は深く責むるに足らぬとしても、現在民國に時めく新式政治家も、三歳兒の魂百歳までの諺通り、今に以[#レ]夷制[#レ]夷政策を忘れぬ、かの山東問題の如き、當然日支兩國の間で解決せなければならぬ事件でも、或はパリに或はワシントンにと擔ぎ廻はり、最後に英米委員の面前に裁決を仰ぐが如き不體面な事情の下に解決して得々たる有樣でないか。アジア人のアジアといふ思想も主義も全然忘却して、絶えず東亞の問題に歐米人を引き入れ來たのは、實に支那の政治家でないか。

         五

 孫文氏に限らず、支那人はよく日本の侵略を攻撃して排日の題目にするが、その實日本は支那に對して毫も侵略を行つて居らぬ。臺灣の割讓は當然のこととて問題にならぬ。臺灣を除くと、支那人が日本攻撃の的にした、若くば的にする、山東でも、旅大でも、日本は支那から獲得したものでない。列國の利權は多く口舌の間に、直接支那から獲得したが、日本のみは多大の人命金錢を擲つて、然も事實上支那の既に放棄して仕舞つた土地や利權を、露國やドイツから讓り受け又は繼承したのである。格別支那人から彼是非議さるべき筋合のものでない。勿論長い間には日本の對支政策にも感心出來ぬ點があつて、支那人の感情を害したこともあらう。されどこれとてその時代の趨勢やら支那の状態やら、乃至日本としての立場を考慮したらば、一概に日本のみを咎め難いと思ふ。
 日本人は早くから白禍の横溢に焦慮して居る。從つて日支親善の必要をも痛感して居る。最近數年間に亙る我が國の新聞雜誌を通覽しても、萬口一調に日支の親善を主張して、殆ど一人の異議を唱へる者がない。寧ろ日支親善に傾き過ぎずやと氣遣はれる位である。吾が輩も無論日支の親善を結構と思ふが、親善には相手が必要である、相手の實情をも考慮せずに、日本のみが親善に齷齪するのは、聊か餘計なことかとも思ふ。支那人の對日感情は近來可なり良好となつたと傳へられて居るが、併し關税會議に日本の委員が支那の主張に贊成したからとて、直に親日の氣運が濃厚になり、刻下の騷亂に、我が在滿居留民保護の爲に出兵の噂があると、直に排日の運動を開始せんとするが如き、手を飜せば雲となり、手を覆せば雨となる樣な、輕薄にして打算的な親善ならば見合せたがよい。眞に日支の親善を成立せしめんには、先づ支那人が覺醒して、過去の弊竇から擺脱することが必要である。

         六

 支那に政變の機が動くと、例によつて學生の妄動が始まり、兵士の掠奪が行はれる。昨今の新聞紙上にも彼等關係の記事が散見して居る。學生の妄動は民國以來殊に著しくなつた。山東問題に關する彼等の煽動暴擧を、米國のラインシュ公使やヂュウェー博士等は頗る善意に解して、新教育を受た支那學生の愛國的精神の發露と見做し、將來の支那は此等學生の示せる愛國的精神によつて隆興すべしと論じてゐる。我が國の新聞や雜誌の記者にも、かかる見解を公にした人が尠くなかつた。されど支那の學生が學業を外に國事に奔走(?)したのは、歴史上珍らしいことでない。然も學生の活動は、多くの場合その國家に幸せなかつた。殊に南宋時代の大學生の如きは、無責任な空論を唱へて當路の大臣を苦しめ、當局の怯懦は愈※[#二の字点、1−2−22]彼等を増長させ天下を擧げて學生の世界と化し去り、その状況は民國以來の有樣を髣髴たらしむるものがあつた。猾智に長ぜる宋末の宰相の賈似道は、奇貨利用すべしとて、學生を籠絡してその位置を固め、籠絡された學生は賈似道を謳歌して遂に宋祚を滅亡の淵に陷れた。當時の落首ともいふべき、
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※[#「鼓/卑」、第4水準2−94−67]鼓驚[#レ]天動[#レ]地來。九州赤子哭哀哀。廟堂不[#レ]問平[#レ]戎策。多把[#二]金錢[#一]媚[#二]秀才[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
の一詩が、雄辯に之を證明して居る。
 近時の支那學生の妄動をヂュウェー博士の如く、新に目覺めた支那青年の愛國的精神の發露と解すべきか、將た又支那に古來有勝な學生(處士)の横議の一例、從つて淺慮と盲信とに滿てる支那人の團體的行動の一例と解すべきか。その何れが正當な解釋であるかは一の疑問と思ふ。

         七

 支那の軍隊も古今を通じての厄介物である。それでも漢時代には、胡兵五而當[#二]漢兵一[#一]など稱せられて、支那の兵士も相當勇敢で素質も好かつた。唐の中世に兵農分離して、兵士を雇募することになつて以來、その素質は日一日と低下して、「遂に好鐵不[#レ]打[#レ]釘。好人不[#レ]當[#レ]兵」――滿足な人間は軍隊に入るべきでないとの意味――とか「鐵到[#二]了釘[#一]。人到[#二]了兵[#一]」――零落の眞底に陷る意味――とかいふ諺まで出來、兵士といへば人間としての最劣等の屑物を意味するに至つた。北宋の歐陽脩は當時の軍隊に就いて、「不[#レ]足[#三]以威[#二]於外[#一]。而敢驕[#二]於内[#一]」――外寇を防ぐことが出來ぬ弱い軍隊、されど國民だけを虐げることが出來る強い軍隊――と嘆息して居るが、その嘆息はその儘民國今日の軍隊に適用することが出來る。いかにも民國の軍隊は裝甲タンクをも使へば、飛行機をも用ゐて居る。その隊制や武器からいへば、立派に二十世紀の軍隊であるが、その精神や素質からいへば、九百年前その儘の軍隊といはねばならぬ。かかる外形と内質との懸隔は、必ずしも軍隊の一方面のみに限らぬ樣に思ふ。そこに民國の最大弱點がないであらうか。吾が輩は近年喧傳されつつある支那人の覺醒の眞實ならんことを切望するものであるが、眞實の覺醒は今少しく根本的精神的であつてほしい。かかる根本的精神的の覺醒こそ、日支兩國共通の一大幸福と思ふ。(大正十四年十二月六日)
[#地から3字上げ](大正十五年一月『外交時報』第四十三卷第一號所載)



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日初版発行
初出:「外交時報 第四十三巻第一号」
   1926(大正15)年1月
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月1日作成
2004年2月21日修正
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