支那人辮髮の歴史
桑原隲藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)成吉思《ジンギス》

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(例)同樣|頸窩《ぼんのくぼ》

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(例)※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]

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 (例)人皆辮髮、與[#二]契丹[#一]異。

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(例)第一に 〔d'Orle'ans〕 の
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http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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         一

 中華民國が成立してから殆ど一週年、黄龍旗が五彩旗と變つたと共に、支那人の辮髮も次第に散髮と變じ、清朝最後の皇帝であつた宣統帝すら、昨夏既に辮を解いたと傳へられて居る。名物の辮髮がその影を中華全土に絶つに至るは、或は遠き將來であるまいと思はれる。
 この名物の支那人の辮髮は、世間で普通に考へられて居るやうに、決して清朝からはじまつたものではない。遙かその以前の金時代、即ち今より約八百年前に實行されたこともある。金以前にも辮髮種族が支那内地を占領して、國を建てたことがあるけれども、當時果してその領内の漢人が辮髮したか否かは判然せぬ。内地在住の漢人が、明に辮髮したのは、金以來のことである。
 金即ち女眞は辮髮種族であつた。その辮髮に就いては、宋の陳準の『北風揚沙録』(1)に、
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人皆辮髮、與[#二]契丹[#一]異。耳垂[#二]金環[#一]、留[#二]臚後髮[#一]、以[#二]色絲[#一]繋[#レ]之。富人用[#二]珠金[#一]爲[#レ]飾。
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とあるのが尤も詳い記事である。『大金國志』(2)にも略同樣の記載をして居る。辮髮の形状は、此等の記録によつても、多少不判明であるが、金と後の清朝とは同一か、然らずとも極めて近親の種族の間柄であるから(3)、女眞の辮髮の形は、滿人のそれと大差なかつたものと想像される。
 金は西暦千百十四年に遼より獨立し、千百二十五年に遼を滅ぼして、中國の北邊十餘州を手に入れ、ついで千百二十七年に北宋の國都開封を陷れてから、中國の半を占領することとなつた。今の地理でいへば、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部は、金の版圖に歸したのである。かくて金の太宗の天會七年(西暦一一二九)に、始めてその領内の漢人に對して、胡服・※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令を下した。
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是年六月行[#二]下禁[#一]。民漢服及削髮不[#レ]如[#レ]式者死。(4)
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 この禁令は決して空文でなかつた。實際頂髮式に背いた爲、又は漢服を着けた爲に、死罪に處せられた者がある(5)。宋の官吏で金の手に捕はれた者は、何れも辮髮を強いられた。青州の觀察使李※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]、保義郎李舟(6)、右武大夫の郭元邁(7)等は、何れも宋の忠臣として、髮を惜んで義に死した人々と傳へられてゐる。宋の周※[#「火+單」、読みは「せん」、442−9]の『北轅録』(8)や、宋の樓鑰の『北行日録』(9)等、南宋時代に金へ使した人々の紀行を見ると、金の領内の漢人が、女眞服を着けて居つたことを明記してある。已に胡服する以上、彼等は同時に辮髮して居つたものと推察される。
 金の章宗の承安五年(西暦一二〇〇)に、女眞人・漢人等の拜儀に就いて議論があつた時、司空の完顏襄が、
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今諸人袵髮皆從[#二]本朝(金)之制[#一]。宜[#レ]從[#二]本朝拜[#一]。(10)
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と主張して、その説が實行された。是によつても當時金廷の官吏は、女眞人と漢人との別なく、一律に胡服・辮髮したことがわかる。之を天會七年の※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令と對比すると、金一代を通じて漢人――少くとも漢人で官吏たる者――の辮髮した事實に就いて、殆ど疑を挾むべき餘地がない樣である。

         二

 金の後に蒙古が興る。蒙古は西暦千二百三十四年に先づ金を滅ぼし、續いて千二百七十六年に、南宋を併せて天下を統一した。この蒙古も女眞と同樣、辮髮種族であるが、辮髮の形は可なり相違して居る。蒙古人の辮髮のことは、諸書に散見して、一々列擧するに暇ない程であるが、中に就いて宋の孟※[#「王へん+共」、第3水準1−87−92]の『蒙韃備録』と、宋の鄭所南の『心史』との記事が、尤も委細を盡して居る。前者は次の如くである。
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上至[#二]成吉思《ジンギス》[#一]、下及[#二]國人[#一]、皆剃[#二]婆焦[#一]、如[#二]中國小兒[#一]。留[#二]三搭頭〔髮?〕[#一]。在[#二]※[#(ノ/(囗<メ)/心)+頁」、第3水準1−93−94]門[#一]者、稍長則剪[#レ]之。在[#二]兩下[#一]者、總小角垂[#二]於肩上[#一]。(11)
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鄭所南の記事も略同樣である。
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韃主剃[#二]三搭辮髮[#一](中略)云[#二]三搭[#一]者、環剃[#二]去頂上一彎頭髮[#一]。留[#二]當[#レ]前髮[#一]、剪短散垂。却[#二]析兩旁髮[#一]。垂[#二]綰兩髻[#一]、懸[#二]加左右肩衣襖上[#一]。曰[#二]不狼兒[#一]。言[#下]左右垂髻礙[#二]於囘視[#一]、不[#上レ]能[#二]狼顧[#一]。或合辮爲[#レ]一。直※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]垂[#二]衣背[#一]。(12)
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 此等の記録によると、蒙古人は前頭と左右兩側頭に髮を留めて、他は皆剃り去つたものと見える。前頭に留めた髮は、今日の南支那の婦人の前髮の如く、その儘に垂下し、兩側頭に留めた髮は、之を辮み綰げて、幾分わが古代の耳鬘《みづら》の如くして、その餘端を垂下したのである。鄭所南の記する所によると、左右兩旁の留髮を合せて一辮となし、宛《あたか》も滿人の辮髮の如く、背後に垂下したものもある樣であるが、然し之は稀有の場合で、普通は左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものである。『竹崎季長蒙古襲來繪詞』を見ても、國中の蒙古人は皆二個の辮髮――不思議に何れも前頭の留髮はないが――を垂れて居る。
 蒙古人の辮髮のことは、當時東亞へ旅行して來た西洋人の紀行を見ると、一層明瞭である。蒙古時代に東洋に旅行した西洋人の紀行は可なり多いが、中でも William of Rubruck の紀行が一番好い材料を供給する。Rubruck はフランス王の命を奉じて、蒙古の憲宗の廷を訪ひ、西暦千二百五十三年の十二月から、翌千二百五十四年の八月まで、約九ヶ月間蒙古に滯在した人である。彼は蒙古人の辮髮に就いて下の如く記して居る。
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男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、この四角形の前方の兩隅から蟀谷《こめかみ》まで、頭の兩側を剃り下げる。頭の後部も同樣|頸窩《ぼんのくぼ》まで剃り下げる。前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。この殘した一束の髮はその儘眉際まで垂れ散らし、頭の左右兩側に存する髮は、編みて兩耳の邊に辮髮とする。(13)
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 Rubruck に先だつて、ローマ法皇の使節として、蒙古の定宗の廷に往つた Plano Carpini 、同じくローマ法皇の使節として、ペルシアの Baidjou の營を訪うた Anselm 等も、蒙古人の辮髮に就いて參考すべき記録を傳へて居る(14)。此等の記事を漢籍のそれと比較すると、蒙古人の辮髮の有樣は容易に理會される。『中國歴代帝后像』に收むる所の、元の諸帝の肖像を參照すると、一層理會を容易ならしめる。

         三

 辮髮種族の蒙古人が支那を統一した時、その主權の下に立つた漢人の多くは、辮髮したものと見える。蒙古時代には朝鮮でもペルシアでも、蒙古人の直間接の支配を受けた地方では、一律に辮髮が流行した。西暦十三世紀の頃に、ペルシア地方では耶蘇教徒たると囘教徒たるとを問はず、多く皆辮髮をして居つた。(15)
 朝鮮では高麗の元宗の時、始めて蒙古の風俗採用の議が出たが、實行されずに濟んだ(16)。元宗の子の忠烈王は早く蒙古に質となり、殊に元の世祖|忽必烈《フビライ》の女、忽都魯掲里迷失《クツルガイミシ》(Khutlgaimish)公主をその妃に迎へた關係から、早く辮髮・胡服して得意滿面であつた(17)。西暦千二百七十四年に彼が元から歸り、父元宗の後を承けて高麗王となると、劈頭にその國人の辮髮せざる者を叱責して居る。かくて大臣先づ辮髮を行ひ、後ち四年にして千二百七十八年に、國内に辮髮の令を下した。
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忠烈王四年二月。令[#二]境内[#一]皆服[#二]上國(元)衣冠[#一]開剃。蒙古俗剃[#レ]頂至[#レ]額。方[#二]其形[#一]留[#二]髮其中[#一]。謂[#二]之開剃[#一]。(18)
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辛※[#「しめすへん+禺」、読みは「ぐ」、445−6]の十三年(西暦一三八七)に辮髮・胡服を廢して、大明の衣冠をとるまで(19)、約百十年間、朝鮮の官吏、學生等は皆辮髮したのである。
 朝鮮やペルシアの例から推測すると、蒙古の支配を受けた漢人も、或は同樣であつたらうと想像される。吾が輩は昨年の一月の『大阪朝日新聞』に、支那の革命に關する一文を寄せた時、蒙古時代に於ける漢人の辮髮のことに論及して、その直接の證據は未だ見當らぬと述べて置いたが、その後『皇明實録』を閲して、確實なる證據を發見することが出來た。即ち明の太祖の洪武元年(西暦一三六八)二月の條に、下の如き記事がある。
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詔復[#二]衣冠[#一]如[#二]唐制[#一]。初元世祖起[#レ]自[#二]朔漠[#一]以有[#二]天下[#一]。悉以[#二]胡俗[#一]變[#二]易中國之制[#一]。士庶咸辮髮推髻。深※[#「ころもへん+瞻のつくり」、読みは「せん」、445−12]胡帽。(中略)無[#二]復中國衣冠之舊[#一]。甚者易[#二]其姓氏[#一]爲[#二]胡名[#一]。習[#二]胡語[#一]。俗化既久、恬不[#レ]知[#レ]怪。上久厭[#レ]之。至[#レ]是悉命復[#二]衣冠[#一]如[#二]唐制[#一]。士民皆束[#二]髮於頂[#一](中略)其辮髮推髻胡服胡語胡姓一切禁止。(中略)於[#レ]是百有餘年。胡俗悉復[#二]中國之舊[#一]矣。
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 明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、中國傳來の衣冠を再興したので、元時代の漢人が辮髮・胡服して居つた事實は、最早疑ふべき餘地がなくなつた譯である。
 蒙古時代の漢人の辮髮・胡服を事實として、その辮髮・胡服は金時代と同樣、政府の禁令によつて強制された結果であるか、或は漢人の迎合主義で、自ら進んで官憲の意に阿つた結果であるかは、輕々に斷定し難い。上に引用した『皇明實録』の記事では、元朝の政策の結果の樣にも考へられるが、然し元一代を通じて――未だ十分の調査はせぬが――漢服・蓄髮の禁令は發布されて居らぬ樣である。
 しかのみならず高麗人が服飾を變更した時、元の世祖は却つてみだりに國風を改むることを不可として、その輕薄を戒めて居る(20)。されば蒙古時代に朝鮮人の辮髮・胡服したのは、蒙古の命令でなく、例の迎合主義から實行したものである。主權者の意を迎合することに於て、甚しく朝鮮人に讓らざる漢人のことであるから、殊に蒙古時代には漢人の多くが、自から進んで蒙古名を稱し、蒙古語を習つて、得意となつた事實もあるから(21)、彼等の辮髮も或は迎合主義の結果かも知れぬ。
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