四

 明一代は中國主義の發揮された時代で、その二百八十年の間、漢人は皆蓄髮した。されど明が滅んで清朝となると、復た又辮髮が行はれて來た。清朝の辮髮に就いては、吾が輩は極めて簡單ながら、昨年一月の『大阪朝日新聞』紙上に紹介したことがある。清の太祖・太宗時代から、遼東方面に於て投降して來た漢人には、皆薙髮即ち辮髮さして居るが、支那本土に於ける漢人の辮髮・胡服は、世祖の順治元年(西暦一六四四)に試行せられ、翌二年に強制せられたのである。順治元年清軍が關を入ると間もなく、沿道の漢人に辮髮を命じて居る。その五月二日に愈※[#二の字点、1−2−22]北京に入ると、その翌三日に早くも、
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凡投誠官吏軍民。皆|著《セシム》[#三]薙髮衣冠、悉遵[#二]本朝制度[#一]。(22)
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といふ※[#「にんべん+布」、第3水準1−14−14]告を出した。所がこの衣冠變更は頗る漢人の感情を害し、形勢不穩と見て取つたる當時の攝政、睿親王|多爾袞《ドルゴン》は、同月二十四日に次の如き諭文を下して居る。
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予前因[#下]降順之民、無[#上レ]所[#二]分別[#一]。故令[#三]薙髮以別[#二]順逆[#一]。今聞甚|拂《モトル》[#二]民願[#一]。反非[#下]予以[#二]文教[#一]定[#レ]民之本心[#上]矣。自[#レ]茲以後、天下臣民照[#レ]舊束髮、悉從[#二]其便[#一]。(23)
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 即ち一時辮髮と蓄髮とは人民の便宜に任せたのであるが、順治二年(西暦一六四五)江南ほぼ平定に歸すると同時に、その六月十六日から清廷の態度は俄然一變して、辮髮を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行することとなつた。その時の諭文は左の如くである。
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向來《コレマデ》薙髮之制、不[#三]即令[#二]畫一[#一]、姑聽[#二]自便[#一]者。欲[#下]俟[#二]天下大定[#一]始行[#中]此制[#上]耳。今中外一家、君猶[#レ]父也、民猶[#レ]子也。父子一體、豈可[#二]違異[#一]。若不[#二]畫一[#一]、終屬[#二]二心[#一]。不[#レ]幾[#レ]爲[#二]異國之人[#一]乎。(中略)自今布告之後、京城内外限[#二]旬日[#一]。直隷各省地方、自[#二]部文到日[#一]亦限[#二]旬日[#一]、盡令[#二]薙髮[#一]。遵依者爲[#二]我國之民[#一]、遲疑者同[#二]逆命之寇[#一]、必※[#「宀/眞」、第3水準1−47−57][#二]重罪[#一]。若規避惜髮、巧辭爭辯、決不[#二]輕貨[#一]。該地方文武各官、皆當[#三]嚴行[#二]察驗[#一]。若有[#乙]復爲[#二]此事[#一]、涜[#二]進章奏[#一]、欲[#下]將[#二]已定地方人民[#一]仍存[#中]明制[#上]不隨[#二]本朝制度[#一]者[#甲]。殺無[#レ]赦。(24)
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 かくて清朝の保護の下に立つ者は、僧侶と道士とを除くの外、皆必ず辮髮・胡服せねばならぬこととなつた。孔子の裔なる孔文※[#「言+票」、読みは「ひょう」、447−14]が、その宗家の衍聖公孔允植の爲に、孔廟の禮儀を執行するに、新制は不便多ければ、蓄髮して先王の衣冠を用ゐたしと願ひ出でて大譴責を蒙り、孔聖の裔たる故を以て、僅に死罪を免ぜられたといふ事件も、この當時のことである。金・元時代――漢人の辮髮・胡服した時代――でも、曲阜の聖裔に限つて、儒冠・儒服を著けたが、清朝では一律に辮髮・胡服を命じたので、その決心の鞏固なる一端を察知することが出來る。
 然し夷を以て華を變ぜんとするこの規定は、當時の漢人――保守的自尊的で、殊に父母より受けたる身體髮膚を毀傷せざるを孝道の始と信じて居る漢人――の反感を招いたことは想像以上である。清廷も漢人の反感の大なれば大なる程、愈※[#二の字点、1−2−22]嚴重に辮髮を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行し、留[#レ]頭不[#レ]留[#レ]髮、留[#レ]髮不[#レ]留[#レ]頭といふ制札を、江南地方に掲示させた(25)。之に關せず漢人は猶も頑強に護髮の決心を捨てぬ。江陰の虐殺も、嘉定の屠城も、畢竟この衝突の一結果たるに過ぎぬ。南風競はずして、大勢不可と極つた時でも、頭可[#レ]斷、髮不[#レ]可[#レ]薙と豪語した左懋第がある。膝不[#レ]可[#レ]屈、髮不[#レ]可[#レ]披と壯言した余煌がある。欲[#下]將[#二]鬚髮[#一]還[#二]千古[#一]、※[#「てへん+弁」、読みは「べん」、448−6][#二]取頭顱[#一]擲[#中]九逵[#上]の句を留めた王之仁がある。勢不[#レ]可[#レ]爲、髮膚將[#レ]獻、畜固難[#レ]存、薙亦見[#レ]羞の詞を殘した傅日炯がある。更に奇拔な者には、其の頭髮を埋めて髮塚を立て、自から嚢雲髮塚銘を作つた周齊曾がある。その他海島に遁がれた者、山林に隱れた者は、一々列擧するに暇がない。昨年上海で出版された『滿夷猾夏始末記』中に、髮史の一篇がある。不充分ながら清初の辮髮に關係ある事件を集録してあつて、幾分の參考に供することが出來る。

         五

 更に飜つて明・清革命の際に關係ある二三歐人の記録を繙くと、漢人が如何に激しく辮髮に反對したかが一層判然する。第一に 〔d'Orle'ans〕 の『支那を征服せし韃靼二帝の歴史』は、當時の光景を次の如く描いて居る。
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辮髮・胡服の新制は、痛く漢人の反感を招いた。彼等は所在に滿洲政府に對して叛亂を起した。漢人は異族に羈絆さるるよりも、その羈絆の徽號《シンボル》として辮髮・胡服を強制さるることを、大屈辱と信じて居る。さきにその頭を斷ざらんが爲に、羊の如く柔順であつた漢人は、今やその髮を斷ざらんが爲に、虎の如く奮起した。當時若し江南の明の諸王がよく一致して、内訌を釀さなかつたら、滿人が果してよく支那を統一し得たか否かは、頗る疑問に屬したのである。(26)
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〔d'Orle'ans〕 の著書は西暦千六百八十八年の出版で、時代はやや後れて居るけれども、その記事は當時支那在住の耶蘇教士、殊に Adam Schall 即ち湯若望の報告に本《もとづ》いたもので、頗る信用すべきものである。
 〔d'Orle'ans〕 の著書より一層參考に供すべき材料として、有名なる Martin Martini の『韃靼戰記』がある。Martini は漢名を衞匡國といふ。耶蘇教會の宣教師で、明・清鼎革の際の前後にかけて、約十年間南支那に滯在して、親しく當時の實地を目撃した人であるから、その記事の信憑すべきは申す迄もない。彼の『韃靼戰記』には、辮髮に關する記事尠からざる中にも、浙江省紹興府に就いて、次の如く敍述して居る。
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韃靼軍は格別の抵抗を受けずに紹興府を占領した。浙江省南半の府縣も、容易に征服し得べき形勢であつたが、然し韃靼軍が新に歸順した漢人に辮髮を強制するや否や、一切の漢人――兵士も市民も――は皆武器を執つて起ち、國家の爲よりも、皇室の爲よりも、寧ろ自家頭上の毛髮を保護せんが爲に、身命を賭して韃靼軍に抵抗して、遂に彼等を錢塘江以北に撃退した。(27)
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Martini 自身は當時もと仕へて居つた明の唐王の許を辭して、南浙江に居つたが、温州陷落の時、韃靼軍の手に歸して、遂に辮髮・胡服に姿を變へた。
 清の順治五年(西暦一六四八)に起つた、江西の總兵金聲桓の叛――清軍の南方經略に一時尠からざる障碍を與へた事件――の眞相は、支那の史料ではやや不明瞭であるが、Martini によると、矢張り辮髮に關係してゐる。金聲桓が嘗て觀戲の際、俳優の著けた支那古代の服裝を賞讚したのが、彼の政敵によつて、滿洲の服裝に不滿を懷く者と誣告せられ、罪を得んことを恐るる餘り、遂に兵を擧げたのである。
 『韃靼戰記』の中で、今一つ注意すべき記事は、清朝の朝鮮に辮髮を強制せんとしたことである。その記事によると、最初朝鮮が清朝に服從した時、衣冠はその舊に依る約束であつたに拘らず、後に清朝は舊約を無視して、朝鮮に辮髮・胡服を命じたから、朝鮮は之に不平を懷き、その羈厄を脱せんと企てた。然しこの事件は Martini の支那出發間際に起つたので、その後の消息を詳にせぬといふことである。(28)
 この記事には年月を繋けてないが、彼がローマへ出發する西暦千六百五十年頃の出來事なるは疑を容れぬ。西暦千六百五十年頃は、正しく朝鮮の孝宗時代に當つて、當時朝鮮と支那との國際關係頗る不穩の状態を呈し、已に順治七年(西暦一六五〇)には、清廷より朝鮮に對して、「其修[#レ]城集[#レ]兵整[#二]頓器械[#一]之事、※[#「山/而」、第4水準2−85−6]《モツパラ》欲[#二]與[#レ]朕爲[#一レ]難也。(中略)朕惟備[#レ]之而已。夫復何言」といふ勅諭を發して居る位である(29)。されどこの紛爭は衣冠の變更とは關係ない樣に思はれる。一寸清・韓の史料を調査した所では、Martini の記事を其の儘に信用する譯にはいかぬ。或は Martini の訛傳か、或は吾輩の調査の不行屆かは、更に他日の研覈に待たねばならぬ。
 Martini は支那から歐洲への歸途に、Batavia に立ち寄つて、そこの蘭人に明が滅び、新に興つた清朝はむしろ海外通商に好意を有する由を告げた。之に動かされて蘭人は清朝へ使節を派遣することとなつた。西暦千六百五十五年に派遣された使者一行は、翌千六百五十六年(順治一三)の七月に北京に入り、順治帝に拜謁して居る。この一行に加つた Nieuhoff の記録によると(30)、直隷・山東の二省は、初め極めて柔順に韃靼軍に歸服したが、一旦辮髮の令が出ると共に、俄然大抵抗を企て、その頭髮を保護せん爲に、幾千の死人を出して居る。北支那でも當初辮髮反對熱の隨分高かつたことがわかる。

         六

 時は一切を軟化せしむる魔力をもつて居る。最初死ぬ程辮髮を嫌つた漢人は、流石に康煕の末頃までは――Careri の『世界一週記』にも明記せるが如く(31)――頗る辮髮を喜ばなかつたが、雍正・乾隆・嘉慶と年を經る儘に、次第に辮髮に慣れて來て、果ては髮の編み樣、頭の剃り樣に、追々流行を競ふ有樣となつた。清の中世以後となると、漢人がその辮髮を大切にすることは一通りでない。五天一打辮子、十天一剃頭とて、五日毎に一囘辮子を編み直し、十日毎に一度頭髮を剃るのが、普通であるけれども、之では滿足出來ぬ者が尠くない。天子諒闇の時は、可なり長い期間、臣民は一切剃頭出來ぬ規定であるが、この期間を待ち詫び、官憲の目を掠め、或はその默許を得て、剃頭鋪《かみそりや》に立ち寄る者が甚だ多い。咸豐帝崩御の際に於ける光景は、當時北清在留の英人の手によつて傳へられて居る(32)。光緒帝崩御の時の實況は、吾が輩の親しく經驗した所である。
 されば長髮賊の亂の時代には、江南の漢人でも、容易にその辮髮を改めることを肯かなかつた。今囘中華民國が建設された當初、嚴しく辮髮を排斥して、官吏學生の間には、可なり斷髮が實行されたが、民間ではまだまだ辮髮が勢力を持つて居る。特に北支那に於て左樣である。昨年一、二月の交、マレー半島に於ても、ジャワに於ても、在留支那人間――勿論江南の漢人が多いが――に大騷動が起つたが、その最大原因は、辮髮と斷髮との爭であつた。その後引續いて起つた支那内地の紛擾も、辮髮に關係したものが尠くない。舊革命黨側の人々は、或は北京で斷髮強制會を結び、或は參議院に斷髮※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行法を出したけれども、その結果は要するに失敗に終つた。今日でも北京在住民の約五分の四は、依然辮髮者と傳へられて居る。この樣子では辮髮の命脈は、意外に長く持續するかも知れぬ。
 支那では髮厄又は髮禍といふ熟字が出來て居る。全世界に於て、漢人程頭髮
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