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 明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、中國傳來の衣冠を再興したので、元時代の漢人が辮髮・胡服して居つた事實は、最早疑ふべき餘地がなくなつた譯である。
 蒙古時代の漢人の辮髮・胡服を事實として、その辮髮・胡服は金時代と同樣、政府の禁令によつて強制された結果であるか、或は漢人の迎合主義で、自ら進んで官憲の意に阿つた結果であるかは、輕々に斷定し難い。上に引用した『皇明實録』の記事では、元朝の政策の結果の樣にも考へられるが、然し元一代を通じて――未だ十分の調査はせぬが――漢服・蓄髮の禁令は發布されて居らぬ樣である。
 しかのみならず高麗人が服飾を變更した時、元の世祖は却つてみだりに國風を改むることを不可として、その輕薄を戒めて居る(20)。されば蒙古時代に朝鮮人の辮髮・胡服したのは、蒙古の命令でなく、例の迎合主義から實行したものである。主權者の意を迎合することに於て、甚しく朝鮮人に讓らざる漢人のことであるから、殊に蒙古時代には漢人の多くが、自から進んで蒙古名を稱し、蒙古語を習つて、得意となつた事實もあるから(21)、彼等の辮髮も或は迎合主義の結果かも知れぬ。
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