た漢人も、或は同樣であつたらうと想像される。吾が輩は昨年の一月の『大阪朝日新聞』に、支那の革命に關する一文を寄せた時、蒙古時代に於ける漢人の辮髮のことに論及して、その直接の證據は未だ見當らぬと述べて置いたが、その後『皇明實録』を閲して、確實なる證據を發見することが出來た。即ち明の太祖の洪武元年(西暦一三六八)二月の條に、下の如き記事がある。
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詔復[#二]衣冠[#一]如[#二]唐制[#一]。初元世祖起[#レ]自[#二]朔漠[#一]以有[#二]天下[#一]。悉以[#二]胡俗[#一]變[#二]易中國之制[#一]。士庶咸辮髮推髻。深※[#「ころもへん+瞻のつくり」、読みは「せん」、445−12]胡帽。(中略)無[#二]復中國衣冠之舊[#一]。甚者易[#二]其姓氏[#一]爲[#二]胡名[#一]。習[#二]胡語[#一]。俗化既久、恬不[#レ]知[#レ]怪。上久厭[#レ]之。至[#レ]是悉命復[#二]衣冠[#一]如[#二]唐制[#一]。士民皆束[#二]髮於頂[#一](中略)其辮髮推髻胡服胡語胡姓一切禁止。(中略)於[#レ]是百有餘年。胡俗悉復[#二]中國之舊[#一]矣。
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