して居つたものと推察される。
 金の章宗の承安五年(西暦一二〇〇)に、女眞人・漢人等の拜儀に就いて議論があつた時、司空の完顏襄が、
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今諸人袵髮皆從[#二]本朝(金)之制[#一]。宜[#レ]從[#二]本朝拜[#一]。(10)
[#ここで字下げ終わり]
と主張して、その説が實行された。是によつても當時金廷の官吏は、女眞人と漢人との別なく、一律に胡服・辮髮したことがわかる。之を天會七年の※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令と對比すると、金一代を通じて漢人――少くとも漢人で官吏たる者――の辮髮した事實に就いて、殆ど疑を挾むべき餘地がない樣である。

         二

 金の後に蒙古が興る。蒙古は西暦千二百三十四年に先づ金を滅ぼし、續いて千二百七十六年に、南宋を併せて天下を統一した。この蒙古も女眞と同樣、辮髮種族であるが、辮髮の形は可なり相違して居る。蒙古人の辮髮のことは、諸書に散見して、一々列擧するに暇ない程であるが、中に就いて宋の孟※[#「王へん+共」、第3水準1−87−92]の『蒙韃備録』と、宋の鄭所南の『心史』との記事が、尤も委細を盡して居る。前
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