れてから、中國の半を占領することとなつた。今の地理でいへば、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部は、金の版圖に歸したのである。かくて金の太宗の天會七年(西暦一一二九)に、始めてその領内の漢人に對して、胡服・※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令を下した。
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是年六月行[#二]下禁[#一]。民漢服及削髮不[#レ]如[#レ]式者死。(4)
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 この禁令は決して空文でなかつた。實際頂髮式に背いた爲、又は漢服を着けた爲に、死罪に處せられた者がある(5)。宋の官吏で金の手に捕はれた者は、何れも辮髮を強いられた。青州の觀察使李※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]、保義郎李舟(6)、右武大夫の郭元邁(7)等は、何れも宋の忠臣として、髮を惜んで義に死した人々と傳へられてゐる。宋の周※[#「火+單」、読みは「せん」、442−9]の『北轅録』(8)や、宋の樓鑰の『北行日録』(9)等、南宋時代に金へ使した人々の紀行を見ると、金の領内の漢人が、女眞服を着けて居つたことを明記してある。已に胡服する以上、彼等は同時に辮髮
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