て居るやうに、決して清朝からはじまつたものではない。遙かその以前の金時代、即ち今より約八百年前に實行されたこともある。金以前にも辮髮種族が支那内地を占領して、國を建てたことがあるけれども、當時果してその領内の漢人が辮髮したか否かは判然せぬ。内地在住の漢人が、明に辮髮したのは、金以來のことである。
金即ち女眞は辮髮種族であつた。その辮髮に就いては、宋の陳準の『北風揚沙録』(1)に、
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人皆辮髮、與[#二]契丹[#一]異。耳垂[#二]金環[#一]、留[#二]臚後髮[#一]、以[#二]色絲[#一]繋[#レ]之。富人用[#二]珠金[#一]爲[#レ]飾。
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とあるのが尤も詳い記事である。『大金國志』(2)にも略同樣の記載をして居る。辮髮の形状は、此等の記録によつても、多少不判明であるが、金と後の清朝とは同一か、然らずとも極めて近親の種族の間柄であるから(3)、女眞の辮髮の形は、滿人のそれと大差なかつたものと想像される。
金は西暦千百十四年に遼より獨立し、千百二十五年に遼を滅ぼして、中國の北邊十餘州を手に入れ、ついで千百二十七年に北宋の國都開封を陷
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