りや》に立ち寄る者が甚だ多い。咸豐帝崩御の際に於ける光景は、當時北清在留の英人の手によつて傳へられて居る(32)。光緒帝崩御の時の實況は、吾が輩の親しく經驗した所である。
されば長髮賊の亂の時代には、江南の漢人でも、容易にその辮髮を改めることを肯かなかつた。今囘中華民國が建設された當初、嚴しく辮髮を排斥して、官吏學生の間には、可なり斷髮が實行されたが、民間ではまだまだ辮髮が勢力を持つて居る。特に北支那に於て左樣である。昨年一、二月の交、マレー半島に於ても、ジャワに於ても、在留支那人間――勿論江南の漢人が多いが――に大騷動が起つたが、その最大原因は、辮髮と斷髮との爭であつた。その後引續いて起つた支那内地の紛擾も、辮髮に關係したものが尠くない。舊革命黨側の人々は、或は北京で斷髮強制會を結び、或は參議院に斷髮※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行法を出したけれども、その結果は要するに失敗に終つた。今日でも北京在住民の約五分の四は、依然辮髮者と傳へられて居る。この樣子では辮髮の命脈は、意外に長く持續するかも知れぬ。
支那では髮厄又は髮禍といふ熟字が出來て居る。全世界に於て、漢人程頭髮
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